“ほどほど落語長屋”(川柳川柳/立川左談次/桃月庵白酒/春風亭一之輔)@北沢タウンホールへ。
今回が2回目の開催。
客も演者も“まさか続くとは!?”と思ってたフシがある会。
どこまでいっても寄席と落語会(ホール落語)は違う。
“あったか落語ぬくぬく”@成城とならび極力寄席の雰囲気を取り込んで楽しもうというある種“挑戦”の会。
落語なんて自由に笑って楽しめればそれでいいんですが…
寄席と落語会。
落語会だと演者(落語家)も“(俺の)これを聴いてくれ”という主義主張というか「マーケティング型」で噺を問うてくる。
そりゃ自分が主体的にその会に出ると決めて、客もそれを目当てに聴きに来るわけだから、前提があってそういうコミュニケーションが成立している。
ただ寄席はそうじゃなく、その当日の客の雰囲気/演る方の自分の心持ち、体調などから究極の「受注生産」として噺が上がってくる。
そこの感覚を客に楽しんでもらう、あるいは演者である落語家と客で空間創造するというのが“挑戦”だと思う。
まあ成城だとまだ枠というか鋳型があるように思うが、下北沢の方がそうした実験には向いているか?
「マーケティング型」の落語家の方がPRが効くというか記憶や脳裏にも残りやすいが、どうしてどうして落語家全体のまあ90%は「受注生産型」でもただのその繰り返しでなく、そこに重ね行く中で産まれてきた微細な感覚と技と魂を入れこんで(あるいは自然と入っていく)ことで“違い”が感じられてくる。
徹底してその上積みを楽しむ。
まさかの2回目の演目は
ご挨拶:川柳川柳/桃月庵白酒/春風亭一之輔
桃月庵白酒「粗忽長屋」
春風亭一之輔「茶の湯」
仲入り
春風亭一朝「蛙茶番」
川柳川柳「ジャズ息子」
まずご挨拶。
2回目にしてまさかの左談次師匠がお休み。
白酒から“なんかこないだ雨の人形町で、ちょうど魚久の前で滑って転んで、右足のこのあたり膝から下を2か所骨折したと”代演は同期で北沢で二人会も一緒に演ってる一之輔の師匠の一朝さん。
しかし寄席じゃなくて普通の落語会で代演って、まあしょうがないですが。
格好のいじりネタ、一之輔からは“私こないだの会で初めて左談次師匠にお会いしたんですが、もう会えないかと思うと…”
川柳師匠からは“酒飲むのは飲むけど、あぁあいつ偏食なんだよ”
上がって白酒。
この会だけでなく川柳師匠が寄席以外で出る会には顔付されることが多く、ご挨拶でも川柳師匠の通訳のようなポジショニング!?
堅いところで「粗忽長屋」
兄貴が考えちゃってサゲる方。
一之輔は、ここのところよく聴く“失踪オカメインコ張り紙”のマクラから、これもまた最近再定番化してきてる「茶の湯」
まあまあ外さない基本爆笑ネタだが、筋書きの展開とそこにチョイチョイと差し込むディティール、例えばカルト化する隠居の茶の湯を捲るところでの小僧・貞吉“小僧の貞きっつぁん、さっき手紙届けに来たよ。なんか青白い顔してね。なんだか帰るときにニヤッと笑ったよ”なんかの小技の絡みがたまらない。
まあでもここ一月で3回目ぐらい、こっちも“また茶の湯か”
仲入り後で代演の一朝さん。
いつもながらのシャキッと江戸のおっさんの居住まい/佇まい。
でも話す噺はパチッと下ネタ。
左談次さんとのことをすこし透かし気味に話してからの、やっぱり芝居噺で「蛙茶番」
役割全うだが、下北沢でも尾篭なとこはほんの少しだけ引く。微妙だが。
トリは御大・川柳師匠。
前の一朝さんの噺を受けて“放送禁止云々って、あんなのは序の口だよ”と、ツッパリながら上手く持たす。
前回「大ガーコン」だったんで、今回は「ジャズ息子」
白酒がマクラで“裏人間国宝”と言ってたが、まさにそんな感じ。
寄席での存在そのものが、もうこれ以上ない程良さの「受注生産」だが、ゆるぎない普遍的な視座が軸としてある。
言うのも口がひん曲がるほど野暮だが、あえて言うと“政治家は川柳師匠を観るべし、聴くべし”
(昭和の落語の国から)帰還してない残留兵。
色物さんなんかも入れて、並べるだけは並べた寄席型の落語会はある。
それはそれで楽しむ。
が、何とも言えない寄席の持つ形容し難い、しかも渦巻く何の生産性もないエネルギーとそれを共有する雰囲気までは再現性までは中々至らない。
この会は、そっちに挑んでる。
パリッと“これが落語だぜ!”と並べられるマーケティング型の噺も様子はいい。
ただ本当のカッコよさは、「受注生産」の男たちのちょっとした矜持の中にあるのもな。
まっそれほどでもなく、ほどほどか…
TEXT:凡梅@STREET-WISE