三遊亭わん丈(さんゆうていわんじょう)インタビュー
芸歴
2011年(平成23年)4月 三遊亭円丈に入門
2012年(平成24年)4月 前座となる 前座名「わん丈」
2016年(平成28年)5月 二ツ目昇進
受賞
2017年(平成29年)3月 第16回さがみはら若手落語家選手権 準優勝
2017年(平成29年)3月 第4回今夜も落語づけ 優勝
2017年(平成29年)8月 NHKラジオ「真夏の話術 2017」優勝
2018年(平成30)1月 下丸子らくご倶楽部若手バトル
2018年(平成30年)10月 平成30年度NHK新人落語大賞 決勝進出
2018年(平成30)11月 春風亭昇太のピローな噺#6 ピローキング
20歳から約7年間、福岡県内を中心にバンドのヴォーカルとして活動。また地元のラジオ番組のアシスタントDJを務めたことをきっかけに、自身で企画からパーソナリティまで勤めるラジオ番組や、イベントの司会なども行う。2010年、東京に訪れた際に寄席で落語に魅せられ、すぐに落語家になるため上京。滋賀県初の江戸落語家となる。
三遊亭わん丈の名を初めて聞いたのは、2014年だった。
私は自分が企画する落語会に出演し楽屋を整えてくれる前座を探していて、落語関係者に相談していたところ、多くの人から同じ名前を聞いた。
それなりに規模の大きな落語会であったため、当たり前のこととして落語が上手く、その上、師匠方はもちろんのこと会の関係者とも良好にコミュニケーションが取れるといったいささか高い条件で人材を探していたためあまり期待をしていなかったのだが、その時訊ねたほとんどの人がわん丈の名を口にした。
果たしてわん丈は、滑らかな高座とバックラインでの鮮やかな働きを見せ、その会の関係者に見初められてレギュラーの前座となった(前座として売れっ子だったわん丈が来られない公演もあったが、その時のバックラインの混乱ぶりはそれは酷いものだったことを今でも鮮明に覚えている)。
そんな「スーパー前座」の名を欲しいままにしたわん丈も二ツ目に昇進して2年半が経ち、様々な局面での抜擢に次ぐ抜擢で、いまや落語会ではお馴染みの名前となった感がある。
落語会のスケジュールを掲載するサイトを運営している立場の人間としては、彼の名前を見ない日はない。そしてその数や規模は膨れ上がる一方だ。
そんなわん丈が二ツ目昇進と共に続けている定期独演会「わん丈ストリート」の会場が、4月の公演から、赤坂会館(客席数50人)から人形町・社会教育会館(客席数200人)に場所を移すことになったとの情報を得た。二ツ目2年半にして、200人キャパで2か月に一度の勉強会を開けるところまで行きついた。
正直なところ、私の予想を大きく上回る活躍に大いに驚き、じっくり話を聞いてみたいと思い、このインタビューが実現した。
この取材は、らくごカフェ10周年記念公演が武道館で開催されたその翌日に行われた。
期せずして武道館という大舞台に立ってしまったその興奮冷めやらぬといった状態かと思ったが、それ以上にとにかく今が充実して楽しくて仕方がないといったポジティヴなパワーが全開で、話を聞いているこちらもすがすがしい気持ちになった。
バンドマンとして8年のキャリアがあるため落語家としてのスタートは遅かったが、彼の成長の早さには目を見張るものがある。
バンド時代に衣装としていたツナギを着て登場したわん丈からは、一本筋の通った芯の強さを感じるとともに、しなやかさというものも大いに感じられた。
これからも、三遊亭わん丈に大いに注目したい。
取材・文章:加藤孝朗(ハナシ・ドット・ジェーピー)
デザイン:林香余
とにかく戦うことが大好きです。ルールの中で正々堂々と戦うのが大好きなんですよ。
――やはり、まずは昨日のらくごカフェ10周年の公演があった武道館の話を聞きたいですね。いかがでしたか?
やっぱり武道館といえば、元バンドマンとしては憧れのステージですよ。音楽をやっていた時に目指していた所だから、音楽を諦めたときに武道館も諦めたわけですよ。だからよくよく考えると、人生は繋がっているなって感じがします。
――確かに、繋がっていますね。
僕は、落語家になって正直あんまり苦労してないんです。トントン拍子に行っているし、この業界が肌に合っている。なんでもっと早くこの世界に入らなかったのかとも思いました。ただ、前座の途中ぐらいですかね、借金まみれで苦労して音楽をやっていたあの時間があったから今があるんじゃないかとも思い始めました。今音楽をやっていた8年間を愛せるようになっているので、落語に出会えて本当によかったですよ。そのいったんの集大成が昨日の武道館です(笑)。まさか、落語に出会ったことによって武道館のステージに立つことになるとは、って。昨日武道館に立ったことで、より落語に対する感謝が強まりました。落語が僕を助けてくれました。あの後音楽時代の仲間から、めっちゃメールとかLINEとかきましたよ(笑)。
――昨日の出演者の中でも、武道館に対する思いはわん丈さんが一番だったのかもしれないですね。
主催の方からは、「マジで歌っていいからね」と言われていたので、歌いましたよ、さだまさしさんの隣でさださんの「秋桜」を(笑)。お客様も僕のことなんて知らないですからね、普通に落語を頑張っている若者が歌っているよ、って感じでしょ。ただただ本当に気持ちよく歌ったら、うわーっと拍手が来て。そうしたら談春師匠がバーッと飛び出していらして「お前は、何を本人の前でマジで歌ってるんだ!」ってツッコんでくれまして(笑)。だから、談春師匠とも武道館でツーショットでからめましたし、なんか夢のような時間でした。
――バンドマンだった自分と、落語家である自分というのが一つになった感じがしますね。
人生に無駄はないんやなと思いました。もう全部落語のおかげですね。で、この間自分の母校の中学校から講演の依頼がきまして、選択肢を持つために勉強をして、その選択肢の中から勇気をもって選択をする、そうすれば今夢中になってやっていることは意外と回収できるから、という話をしてきました。当時の僕の場合は音楽を続けるということが縦移動ですよね。壁にぶつかる、その時に壁を乗り越えることだけがなんとなく美学とされているけれども、違うと。この壁を破れないと思った場合は同じ距離横移動すればいい、と。これは周りからは「逃げる」と言われることかもしれないけれど、そうじゃない。僕がまさにそうで、壁を前に横移動することによって、その壁の向こうにあった武道館という場にたどり着いた訳だから。すべてが繋がっているような気がする、と。
――なんだかとても「絶好調感」というものがビシビシ感じられます。
恥ずかしいな(爆笑)。
――二ツ目になって、2年半。順風満帆で、収入も上がり、お子さんも2人目が生まれ、武道館に立ち、定期独演会が人形町の社会教育会館に移りと、目の前で起きているのはポジティヴで素敵なことしかないというのが現状だと思います。ただ、噺家人生というのはものすごく長い。でももう既に三遊亭わん丈の第一期黄金時代が来ている感じはしていますか?
いや、僕はあんまり変わってないですね。起きている事柄はそうなんですが。僕は自分の幸福が第一で、今の瞬間も次の瞬間も幸せでいたいんです。僕はノンストレスをテーマに生きているんで、そのための取捨選択をして出た結果が今なんです。例えば今、順風満帆と言ってくれましたが、僕の明日の予定は師匠の家の掃除なんですよ。
――ああ、そうでしたね(笑)。
ね、これを、どうとらえるかなんですが、僕は師匠の家に行けることに今でも幸せを感じていますし、こういう順調な時は僕はすぐに調子に乗って天狗になっちゃうんですが、師匠に会うことによって自分を戒められる、その戒めの場まで作ってもらえていると純粋に思えてしまうんですね。普通の落語家は、明日師匠の家の掃除という予定が入っていたらそれは順風満帆とは言わないと思うんですよ。でも、自分の好きな人に二ツ目になっても定期的に会えるというのを素敵なことだと思っています。それも含めて順風満帆だと思います。
――高座から受ける印象と、こうやってお話をさせていただいているときの印象があまり変わらない。とにかくポジティヴなパワーがすごい。これは、どこから来るものなんでしょう?子供のころから、こうなんでしょうか?
そうですね。変わっていないですね。
――どういう少年時代だったんでしょうか?
必ず学級委員ですよね(笑)。勉強は中の上。運動は上の下とかぐらいで、誕生日になれば友達がいっぱいうちに来て、という感じ。僕は昔からオンリーワンではなくナンバーワンに魅力を感じるので、友達がいっぱいいて、勉強ができて、部活ができて、女の子にもててというものを全部ちゃんと叶えるということが目標であって、それをクリアしていくのが好きなんです。で、それをある程度叶えてきた人生を送ってきたつもりです。とにかく戦うことが大好きです。でも蹴落とすのは嫌いです。ルールの中で正々堂々と戦うのが大好きなんですよ。
――それは戦って勝つことが多かったからじゃないですかね?
負けそうだったらやらないんです(笑)ていうか一回やってみて負けたらすぐに負けを認める。例えば、料理は一切しない。絶対できないから。負けを認めるのはめっちゃ早いです。だから、本当はできたかもしれないことが山ほどあるかもしれない。でも、ほんの一瞬でもストレスを感じたくないんですぐ負けを認めて、できそうなものをやります。
――人前に出るのも好きだったんですか?
大好き。なんなら24時間ずっと人目にさらされていたいみたいな感じです。
――子供のころ、学生時代の趣味はどういったものだったのでしょうか?
競馬。馬券を買うということではなく、馬が好きだったので。後は、家が琵琶湖に近かったので、ブラックバス釣りをよくやってました。あとは、スポーツ、小学校の時はサッカー、中学校の時はバスケ、バドミントン。駅伝も学校の代表で出たりしていました。
――十分にスポーツもできる人だったんですね。
でも、本当に運動神経のいい奴と比べると運動神経がいいとは思えなかったですが、出来るまでやるんで2~3番目ぐらいには常にいました。何かで1番になった記憶はあまりないんですよね。何をやっても、2~3番目なイメージですね。長距離も学年で3番目くらいだった気もするし。勉強はもうちょい下だったけど。
――ただ、1位ではないけれどいろんなことが出来るという状態は当時のわん丈さんにしては、どうだったんでしょうか?1位になれないことが嫌なことではなかった?
全然なかったですね。そういえばそうですね。1位ではなかったけど、それがいやではなかったですね。
――周りに人もいっぱいいて、趣味も多く、充実した学生時代を過ごしていて、という今の話の中に、今のわん丈さんを語るうえで必要不可欠な落語と音楽は出てこないんですね。
あ、出てこないですね。まあ、小学校の時はピアノをしていましたけどね。中学の時にジーパンが好きになって、ジェームズ・ディーンを好きになって、ハリウッド俳優になろうと思って、で英会話教室に通い始めました。それが功を奏して英語の成績はすごい良かったんですね。
――そのハリウッド俳優の夢はいつ潰えるんですか?
高1の時に、クラスで劇をやったんですが、鬼のような大根役者やったんですよ(笑)。これはあかんわって、夢を諦めました。だから、あんなに英語を頑張る前になぜ芝居をやらなかったんだろうって。英語力だけ残りました。
――(笑)。
でも、人前に立つ仕事はしたいと思ったんですよね。それでぼんやりと、どんなことで人前に立ってるかはわからんけれども、大人になったら絶対に東京に行ってるのは間違いないと思って、九州の大学を選んだんですよ。滋賀県という関西で生まれて、東京に行ったら、多分九州に行くことはなくなると。温泉旅行とかね、そういうのではあるかもしれないけれど、生活としてそこに行くことはなくなるなと、北海道もそうなんですけど。で、寒いのは苦手やから九州。九州の中でどっかにいい大学ないかな、っていう選び方をしたんです。だから当時から今の自分はぼんやり見えていました。絶対に東京に行って人前に立つ仕事はしているだろうな、と。
――そこで、なぜバンドだったんですかね?
のちのメンバーの一人から「お前、活舌良さそうだからラップできる?声も通るから」って急に電話がかかってきたんです。なんでオレなんやと思いましたが、その時目の前のテレビでミュージックステーションが流れていて、宇多田ヒカルさんがめっちゃ気持ちよさそうに歌っているのを見て、人前で歌うのもいいかも、と思って。それで、バンドが始まりました。20歳から音楽を始めて、やるなら仕事にしたいなと思いました。
――最初からオリジナルをやっていたんですか?
3か月ぐらいだけコピーをしました。YKZのコピーをやってました。あとは、リンプ・ビズキッドのコピーも。レッチリもやりましたかね。ミクスチャーの、バキバキの音で、ヒップホップじゃないラップの、ですね。その後はすぐにオリジナルをやっていましたよ。メンバーに言われるがままでしたけど。歌詞書ける?って聞かれたから書いてみたら、いいじゃん、って感じで。
――そのバンドは始まった時からプロ志向だったんですね。
そうです。特に僕が。
――バンドをやろうと誘われて、すぐにプロ志向になった。何がきっかけでそうなるんですか。
スタジオに入っている時間が長くて、一日で音楽のことを考えている時間が最も長かったので、これを仕事にしないともったいないと思ったんでしょうね。
――何かを始めるとすぐにその先を見据えてしまうという、性格なんですかね?
性格なんでしょうね。何かものごとをやる時には、落語で前座に入った時も二ツ目になった時もそうなんですけれど、まずそのダンジョンの全域を見るんですよ。で、自分が今どこにいるかのを把握する。例えば学生時代に教科書をもらったら、すぐにこの一年で最後はどこまで行くんだというのを絶対に見るんですよ。別に勉強熱心という訳ではないけれど。最後を見て、じゃあ、今はここにいるんだなというのがわからないと動かないんです。ペースを考えたいから。
――まず、大まかな地図が絶対に必要と。
地図を絶対に自分の中に描いて、その中のどこに行くかでペース配分を考えて。だから、自分のことを今の出ている結果に値するほどの才能のある人間ではないと思っているんですね。でもなんで今みたいな状態になっているかといわれたら、僕は優先順位をつけるのがめちゃくちゃ上手いからだと思います。
――課題を明確にするということですね。
そう。今いるものといらないものとの取捨選択がすごく正確に、かつスピーディーにできていると思います。ただそれだけで僕は生きていけています。
――音楽を始めたときも、音楽の本質に雷のように撃たれたとか、そういうことではないんですね。
僕は、音楽は人にキャーキャー言われる、人に見てもらうためのツールだと思っていました。それは落語も一緒です。僕を見てもらうためのツールです。よく落語家で、落語のために自分を消すというじゃないですか。僕は真逆ですね。落語が僕を前に押し出してくれているというか…音楽の時もそうです。ただ、20~28歳までやりましたが、25歳の頃には向いていないというのはわかっていました。でも、1回これで食うと決めてやったから食えるまでやったらなんか見えるものもあるんじゃないかと思って、最後の3年はね。でも、その時は結構人が離れていきましたね。自分でもあの時に得た教訓は多いです。あの時の僕は調子が悪かったと思いますね。
――その頃、バンドの活動のボリュームはどれくらいだったんでしょうか?ライブの動員は?
北九州では1番といわれていました。その頃には、もう音楽で食えていました。
――CDは出していたんですか?
レーベルからは出していませんでしたが、自主製作で出していました。ツアーの手売りで5,000枚売っています。
――それはすごい。メジャーに行く意思はなかったんですか?
当時、ある有名な売れているバンドがツアーで回ってきた時、給料を教えてくれたことがあったんですが、えっ、メジャーでもそんなんなのって思ったのもあって。そこまでメジャーデビューしたいという気持ちもなかったんですよ、きっと。
僕はライブ至上主義なんですよ。やっぱり最強はライブやと思っている。
――ここまでの話の中だけでも、落語家としてやっていく中で通用する話がいっぱい出てきていますね。わん丈さんは非常にブレていないという気が強くします。
そうですね。僕はキャラづくりをしないですから。頑張っているときはそのまま頑張っているように見せて、頑張っていない時も頑張っているように見せます。落語家は逆の人多いでしょ。頑張っている時は頑張っていないように見せるのがカッコいいみたいな。僕は、あれがカッコ悪く見えてね。例えばネタを決めていて、前日から絶対稽古しているのに直前まで決めていないようにしているとか。何なんそれ、おもろないわ(笑)って思ってるんです。上方の落語家は、何のネタをやるのかをけっこうすぐに言う人が多いんですよ。東京の、江戸っ子のやせ我慢っていう感覚は、なんか薄ら笑ってますね心の中で(笑)。
――それはやはり、滋賀県初の江戸落語家といっても、性根は関西の方ですからね。
そうですね。僕は、仕事で江戸落語家をやってますもん。
――いろいろな噺家の方に取材などで話を伺っても、皆、地方から東京に出てきて入門されたら、皆、東京の落語家になっている気がします。そういう方が非常に多い。そうじゃないんですよね、わん丈さんは。
そう。なんか僕にはね、落語の世界のすべてが「ごっこ」にしか見えていないんです。ほんまはもっと心の底から落語家になってと考えたんですけど。前座修行を始めたときに、ずるいことをする人がいるんですよ、こっちはまじめにやっているのに。で、その人たちがなんとなくこの世界で楽しそうというか、そっちの方がマジョリティで、しかもただ人数が多いのではなくて、そっちの方が良しとされているみたいに見えたときに、ああ、そうか、「ごっこ」なんやと。年下やけど香盤は上っていうのをほんまに思っているのかといったら、「あいつ年下なのに」って打上げや、酒の席で言っている人がいる。ああ、「ごっご」なんやな、て。心の底から変えたらあかんやん、って(笑)。
――(笑)。
僕は、本当にすべてを全身全霊そこで捧げられてしまうし、そこで勝つ自信もあるし、自分の中で結果も出してきたから、出来てしまうんですよ。でもやろうと思ったときに、周りから「お前マジじゃん…」みたいにはじかれて、あ、「ごっご」でいいのねって気がついた。じゃあ、オレもそのつもりでやるよってなって、そこから私生活で関西弁も普通に喋るようになったし。
――なるほど。結局、「ごっこ」だと気づくまでには全身全霊で突っ込んでいって、跳ね返されたんですね。
そうですね。跳ね返されましたね。真面目な奴が損をするのは嫌なので。だから、僕はまじめに「ごっこ」を突き詰める、と。それまでは辛かったけど、それに気づいてからは楽になりましたね。
――すごく面白いなと思うんですよ。今の話も、ものすごく真剣に、まじめに、不真面目なことをしようとしているだと思うんですよ。
そうです。
――で、話を聞いていると、じゃあ、性根はどっちなんだろうと見失う瞬間もあるんですよ。だから、本当はものすごくまじめな方で、痛い目にあいたくないから「ごっこ」をしているのか、本当は性根としてもある種の計算高さをちゃんと持ち合わせていて、その上で全身全霊向かわないという決断をするのかという、その2つがすごく入り混じっているような感じがします。
ああ、なるほど。例えば、「このルールで戦います」ってなって、そこで僕が勝ちかけたときに「あ、いや、こっちのルールでした」となったら、「ああ、分かった、分かった。じゃあ、こっちのルールでも戦おう」っていう感じに切り替えられるんです。とにかく、ルールの中でガチガチ戦って勝ちたいんですよ。二ツ目の落語会って、言ってみたら席取りゲームじゃないですか。先輩方で今僕がやらせていただいている仕事をやっていた人がどんどん売れていっていらっしゃいますよね。で、「さあ、次は誰や?」ってなっている訳でしょ。それを奪っている感じが好きなんですよ。自分で新しい仕事を取ってきてやるよりも「あ、あの憧れている先輩が5年前にこの仕事してはったな、じゃあ、オレ、この席取ったんや!」っていうのがうれしい。
――音楽の仕事をしていて、良いところも悪いところもあったじゃないですか、で、そこから落語家に転じるわけです。まあ、プロフィール的には、東京にきて、ふらっと寄席に行って、落語に出会うという流れですが、ちょっと一つ分からないのは、本当にたまたま偶然に寄席には入らないと思うんです、普通はね。
はい(笑)。それは、おっしゃる通りですね。
――なぜ、そこで寄席に足を踏み入れて、落語だったのかをお伺いしたかったんです。
落語家になる前の音楽をやっていた時に、僕は音楽よりもしゃべりの方が明らかにうまかったんで、ラジオの番組を持たせてもらうことになったんですよ、北九州のコミュニティーFMで。で、音楽とどっちで勝負となった時に喋りの仕事だなと思って、その頃、東京の浅井企画とタレントとして話ができる機会があったんです。その時は、やしきたかじんさんや所ジョージさんのような、喋りベースで歌もやるっていうタレントになりたかったんです。で、浅井企画と話をしたのですが、うちは歌も弱いしということでうまくいかなかった。でも、ラジオをやりたいなと思ったときに、ふと、上方落語家って皆ラジオ番組を持っているイメージがあったんで、ラジオDJの入り口として落語家になることを考えたんです。それで落語を観に行ったんですよ。そうしたら、入り口にしようとしていた落語が、見た瞬間に、いや出口までこれでいい、と思えたんです。究極の一人芸。これは、良いなと思いましたね。
――音楽をやってきて、なだらかにラジオに移行して喋りの方をやっていて、そこで音楽はメインではないにせよ、喋りの方、ラジオを中心とした活動をする人、そういう方にシフトチェンジをしていこうと考えていたんですよね。
そうですね。シフトチェンジですよね。だって、最後は音楽で食えてましたからね。だから、夢破れてというよりは、このままじゃ続けられへんなぁ、どちらが向いてるかな、喋りやな、ラジオやりたいな、どうやったらラジオ出来るかな、落語家になればいいかな、みたいな、そんな感じですよね。
――寄席で、何がそんなにピンと来たんですかね?
僕はライブ至上主義なんですよ。やっぱり最強はライブやと思っているっていうので、これでしょ、オレがやりたいのはって、すぐに思いました。一人でできるし。で、僕は池袋演芸場に入ったんですが、構造がライブハウスと似てるんですよ。そこに音楽では土日の夜に必死になってお客さん呼んでもそんなに入らへんかったのに、月曜か火曜の昼間にお客さん半分ぐらいふわっと入ってて、皆、めっちゃ楽しそうで、老若男女いて、しかも観光客っぽい人もいるけど地元っぽい人もいる。もう、食っていける条件すべてそろっていけると思ったんですよね。首都としての東京ではなしに、一都市としての東京にも根付いている強さ、音とリズムが心地いい話芸、それで出てくる人出てくる人皆太ってる、あ、皆食えとる、顔見たことない人なのに。それで、やりたいとやっていいが全て合致して。28歳で、やりたいだけでやったらだめじゃないですか。
――その時、瞬間にそう思いました?
あの時はもう頭が電卓のようになってました。そうやって生きていた頃だったし。今はその電卓はもうないですよ。あの時は、この落語という芸能は音楽と比べて音小さいから電気代かからないし、ジャスラックにも使用料払わなくていいしとか、そんなことを考えました(笑)。
――結局、何かを探し求め続けていたんでしょうね。
本当にそうです。あの時は。それに引っかかったのが落語だったんです。色んなライブを見に行ったりもしましたしね。観劇もしましたし、色々なことをしてみたけど、落語が一番でしたね。
――落語に出会って円丈師匠のところに弟子入りをして、前座修行があって。ただ落語に出会って入門したのが28歳ですよね、その時点で、さっきの横移動をするという、いろんなことを諦めて横移動をするというのは、そこに恐れとかはなかったんでしょうか?
もう、なかったです。借金まみれで、自分の思い描いていた地図の最後まで行ったぞ、このダンジョン間違ってたんや、どないすんねん、でしょ。このころはもう、行くところまで行ってますから。川の水で頭洗ったりしてますからね、ツアー中に。軽のワゴンに機材パンパンで、汗だくで男4人で肌を触れ合いながらツアーを回って、そんな生活をしていたんで。
――もう、音楽をやっていくという生活が、すべてにおいて行き詰っていたんですね。
行き詰ってましたね。今思えば、この日本に生まれ育って、あんな生活をする必要はなかったですよね、ってぐらいの経験もしました。だから落語家で貧乏を売り物にしている人を見ても、ふっと鼻で笑ってしまうこともありますよ。
――そうやって落語と出会えて、すっと落語の世界に入れた訳じゃないですか、ただ、全く違う文化、全く違う職種といってもいいと思います。しきたりやら何やらも違う、その中に入っても、またすぐに新しい世界を分析し始めて、自分で地図を用意して、こうなるためにはこうすべきだと計算がすぐにできたんでしょうか?
いや、もう、自分で広げた地図が間違っていたことに気がついたので、もうまっさらの状態でこの世界には入りました。師匠にも、「お前は計算ができてしまうところがあるからやめた方がいい」みたいなことも結構言っていただいたんで、もう師匠の言うとおりにしようと。誰もここまでは師匠の言うとおりにやらへんやろっていうぐらい師匠の言う通りにやろうと思っています。僕が自分から営業して仕事を取らないのは、「お前は仕事が来るのを待っとけ。営業とかしだしたら、それに夢中になって芸がおろそかになる可能性があるから、お前は稽古をしておけ。そうすれば誰かが見ていてくれて仕事をくれるから」、と師匠に言われたからなんです。だから、仕事を取りに行くことはしないんです。
――なるほど。
自分の持っていた電卓なんか不良品やったってことに気がつくんですよね。借金もあったからマイナスからのスタートだし。落語に出会ったときに、これは向いているかもしれないと思いましたけど、今までの生き方のまま飛び込んでいたら意味ないしダメやと思いましたね。
――完全にリセットした感じですね。
全部、ハードを入れ替えた感じですね。藁をもすがるというのは、本当にあの時の自分のことですね。
――落語に、出会えてよかったですね。
本当によかったです。今、久しぶりに喋っていて…地獄のような日々でしたね、今思ったら(笑)。僕、この世界に入って、人と飯食えるのが嬉しかったですもんね。音楽の最後、ずっと一人やったから。師匠の家で、何人かでしゃべりながら笑って食っているのがすごい楽しかった記憶がありますよ、入った時に。
――落語っていう話芸にピンときたというのもそうですが、落語の持つシステム、例えば師弟関係だったりもそうですが、そういうシステムに丸ごと救われたということですよね。
そうです。そしてとても向いていた。部活好きやし、縦社会好きやし、親父厳しかったし、向いていましたね。このシステムは本当によくできてると思います。
――わん丈さんはセルフプロデュース能力を持ち合わせている方だと思います。でも、バンド時代に自分の作った地図は間違っていたということを悟って落語の世界に飛び込み、師匠の言うことをこれ以上ないほど聞いて今に至ります。そのセルフプロデュース能力を使いたいと思うことや、思わず出てしまうことはないのでしょうか?
ないですね。バンドに行き詰った後、体系化したところに行きたいと思ったんですよ。落語の世界は、音楽業界に比べるとものすごく体系化している。で、その上で今はセルフプロデュースをしないというセルフプロデュースをしているのかもしれません。師匠の芸に対する姿勢や出す結果が圧倒的で、今生では絶対に勝てないと思うんで、今は師匠の言うことを聞いていればいいんじゃないかと強く思うんです。だから師匠が「お前、セルフプロデュース能力使えよ」って言ったら使いますけど、やっぱり、怖いのかな、何か自分でやることが。あと、そんなことをしている時間がないというのも今はあります。
僕は、やっぱり落語協会の先輩の芸が好きなんですね。
――先日、定期独演会の「わん丈ストリート」を拝見させていただきました。久しぶりに見た高座からは、充実感がすごく感じられました。前座の時には、とても野心的で、すごく上を目指しているなというのが力強く感じられたんですが、今、その野心というか向上心が、手ごたえと共に伝わってくるんですよ。4月からはキャパ50席の赤坂会館から、キャパ200席の社会教育会館へハコのサイズも格上げされます。ちゃんと階段をのぼっている、っていう自信も一緒に伝わって来ました。
その実感は確かにあります。運が良かっただけやとも思いますけどね。
――これは見ていて気持ちいいんですよ。今の状態をわん丈さんがエンジョイしているのがビシバシ伝わってくるので。それは一つのホームとしてやっている会の高座から幸せオーラとして出ていて、それをお客さんも満面の笑みで受け止めている。ただ、これが大きな会場になって、新しいお客さんや様子見のお客さんが入ってきた時に、そういう人たちにはどう受け止められるんだろうかとも思いました。今は、お客さんもいわばファミリーだから、「良かったね、わん丈さん」という気持ちだけで見ていられるのが、じゃあ、「どんなもんじゃい、わん丈」というお客さんには、あざとく見えるかもしれない。そういう新たな壁が出てくるんだろうと思います。その時、わん丈さんはどうするのだろうと、非常に強く思いました。
すごくよく見てくださっていると思います。ただ、僕のお客さんをファミリー感あるって仰いますけど、僕が当たり前にライブマンとして生きてきた象徴があれだと思うんですよ。あの空気を僕が作れちゃうのは。あのお客様方の中に、僕は呑みに行ったことのある方なんてほとんどいないんですよ。若手の落語家ってあの規模だと懇親会でほとんどの人と呑んじゃったりしてますよね。僕は、他の若手よりも勉強会のお客さんとのつながりって薄いんです。でも、あの空気を作れちゃう。それはキャパが200になってもあまり変わらないと思います。自然体で臨みます。僕は、自分にキャラ付けもしません。純粋に、芸があるかないかをちゃんとお客様に判断してもらいたいし、自分の課題にしたいので、キャラクターで売るようなことはしたくない。しかもキャラを作るということは、うちに帰ったらそのキャラじゃなくなるっていうことでしょ。僕はその切り替えでストレスを感じると思うんで、そのキャラがいいならそのキャラにほんまになってで生きていけばいいし、僕は、そのままで常に楽しいから、そのままでいいっていう感じですね。
――根っこは戦略家なんだと思うんですよね。その戦略というものを今、一旦脇に置いている。一旦脇に置いておくという戦略なのかなと。だとすると、一体どこでその戦略は封印が解かれるんだろうかと?
まだまだですね。多分、真打になるまではないでしょうね。僕は、今までの既存の二ツ目のイメージとやるべきことを絶対に崩してはいけないと思うんですよ。そうしないと、真打になった時に今の真打の方々がいらっしゃるところにいけなくなると思う。今二ツ目ブームじゃないですか。結果を求められるわけですよね。失敗ができない感じがあります。でも、挑戦、地道な勉強はしないといけないと思うし、そこに失敗はつきものだと思うんですよ。今のこの二ツ目ブームだからってそれに呑まれちゃいけないと強く思っています。
――なるほど。
今、落語界は、落語協会のみならず全ての団体が活況を呈しています。でも僕は、やっぱり落語協会の先輩の芸が好きなんですね。でも、今、僕らは昔に比べて、落語協会の先輩方と仕事をする機会が減っているんですよ。昔は、二ツ目は仕事がなかったから、同じ協会の真打の人から誘ってもらった仕事に行って、打上げに連れて行ってもらって、そこから学べることが沢山あったと思うんです。それは、どこか、美しいんですよ。でも今は、業者さんが4~5か月前にお仕事をくださる。師匠方からのご依頼は2~3か月前が多いから、業者さんのお仕事ばかりになります。それも僕は今独演会のような1人の仕事が多い。ここでできる勉強はものすごいです。でも贅沢な悩みですが、この状況ばかりだと今から独演会用の体になっちゃう。先輩方の打ち上げにお邪魔することもない。これだと、落語協会の今までの美しい真打になれないと思うんですよ。
――ブームの弊害ですね。
そうです。ブームはブームの良いところを取りつつ、あくまでも二ツ目は真打になるためのステップなんです。あるうちの協会の理事の方が、昔、TENというグループが落語協会にあったときに、二ツ目がグループを組んでどうすんだ的なことを仰っていたとまわりまわって聞いたことがあります。「それは真打になってからだよ、真打がスタートラインなんだから」っていう言葉がすごい記憶に残っています。でも、今、芸術協会の先輩方がやっていらっしゃる成金は、絶対的な成功パターンですよね。僕は、その両方を視野に入れられたことが幸せでした。でもやっぱり落語協会の人間なので、その言葉が何となく頭に残っているのかもしれない。
――二ツ目の時にやるべきこと、やるべきじゃないことというのがある、ということですね。ある種の範囲を逸脱はしたくないと。で、あるべき真打の姿というのがちゃんとあって、そこに到達したいと。で、そこから先は自由だ、ということでしょうか?
そうですね。ただ、そこから先は、今は、見ないようにしています。僕は今の未来の目標としては二ツ目最後にすごく素敵な「居残り佐平次」をやるということだけです。でも、それはどこのハコでとか、どれだけのお客様でというのではなく、ただ、「居残り佐平次」を僕が聴いたことのある先輩方のようにやるというのが、今ある唯一の目標です。
――そうなんですね。どなたのようになりたいとかはないんですか?
あんまりないですね。志ん朝師匠の芸は好きです。小三治師匠も好きだし。もちろん一番はうちの師匠の円丈みたいな感じです。何やっても常に上品で、何をやっても落語の中に収めてくれる安心感がある落語家になりたいかな。
幸せいっぱい。一番幸せなのは、落語のことだけをより考えられる環境になっているということですね。
――今回「わん丈ストリート」が明確にステップアップします。キャパが50から200になるわけですよね。音楽で言えば、ライブハウスからホールへ行く。明らかにフェーズが大きく変わるということになります。そこに何も戦略を持たずして立ち向かう、大きい会をまわしていくというのは素人目にも難しいことのように思えます。
4月からの社会教育会館での「わん丈ストリート」に関しては、まず、赤坂会館は桟敷ですが、社会教育会館は椅子席でホールでしょ。だから、より一般的な人、あまり落語を知らない人にも見てもらえる環境になる訳です。もう、それはハナからプラスしかないと思っているんです。この点は、まず、大きいですよ。
――ライブハウスよりも、ホールの方が人は来やすいですよね。
そう。で、あとは、寄席とホール落語の違い、寄席と独演会の違いは考えます。寄席って順番があって、そこに美学があるんですが、独演会は寄席の美学とは絶対に違うと思うんですね。今度の4月にはネタ下ろしの「双蝶々」の上を一つ、新作落語を一つ、あと、まあまあ長尺の、自分の中でそこそこ安定した名刺代わりになるものをやろうと思っています。まあ例えば「妾馬」だとしましょう。その時の順番は、まず前座が上がって、「双蝶々」をやって、新作やって、「妾馬」をやると思う。既存のパターンで多いのって、新作やってね、もうちょっと軽めの「棒鱈」とか「粗忽の釘」とかを仲入りに持ってきて、仲後に「双蝶々」ですよね。僕はそれは違うと思うんですよ。多分お客様が聴いていて一番疲れるのって「双蝶々」だから、それは最初に持ってくるべきだと思うんですよ。
僕、「死神」を去年結構やったんですが、どの会場でも1発目にやったんですよ。お客様は結構、しっかり聴いてくれますね。ああいう重い噺を最初に持ってくるっていうのは意外といいんじゃないかなと。それはまあ戦略といえば戦略です。まあ、セットリストはじっくり考えます。お客さんに一番気持ちよく見てもらえるためのセットリストを。
――大きい会場で、2か月に一回となると結構な頻度ですが、それに対しての恐ろしさとか、怖さとか、そういうものはないですか?
それがないんですよ。二ツ目になって、階段上っていて、ここに踊場があるな、という感覚を持つことがあったんです。朝日名人会に呼ばれた時はとてもうれしくて、あ、踊場に来たな、と思ったんです。ただ僕はここからの2年は踊場がない気がするんです。ずっと階段を勢い付けて上っていく、そしていける気がしていて、なんか、無謀かもしれないんですが、社会教育会館はすぐに終わるんじゃないかなと思っています。
――おおっ。
本当に笑われると思うんですけど、社会教育会館って200でしょ、その次は刻んでもしょうがないから、400~500ってことになると国立演芸場なんですよ。いつかはここでって思っていた社会教育会館がいつの間にか定期独演会の場所になったことによって、もう、オレ、3年後、もしかしたら2年後に、今一度でいいからやってみたいって思っている国立演芸場で、2か月に一度の勉強会をやらせてもらえるようになるじゃないかなと。なんか、そう思っちゃってるんですよね。
――じゃあもう、既に、社会教育会館は通過点でしかないと。
そうですね。
――じゃあ、もう、身構え方が違いますよね。
違いますね。もう当たり前に良いものができないといけないですし。お客様も一人も逃すわけにはいかないし。僕の今の動きって、新しい人を大勢取り込める動きではないんですよ、メディアに出ているわけではないし、何かキャラづくりをしているわけでもないし、インターネットで色々うまくやったりとかもできないし。僕のできることといえばお客様を減らさないことだけなんですよね。今までもそれでやってきたんで、多分それはできると思うんですよ。とにかく、当たり前にそれをしないといけない。
――見どころは?どこを見てほしい、どういうわん丈を見てほしいと思いますか?
なんか、デパートに入る感じですかね。最近、デパートで買い物をすることがすごく好きなんです。そこには、古くからのものもあるし新しいものもあるし、慣れた人も新しい人もいる。常に品があるし、安全、安心だし、そんなデパートに来てもらう感覚で落語会を作っていきたいかな。1階を入った所にまずは何が見えているか、とか。お客様をまずは最上階まで上がってもらってそこから降りてもらうようにしていくのか、とか。その辺のことはちょっと考えちゃいます。今までは、新しいお客様に向けてのことってあんまり考えてこなかったんです。やっぱり、落語を好きな方に向けてというのが多かったんですけど、そういうお客様は絶対に無視しちゃいけないし、その上で色んな方に満足してもらうという一番いい例えとなるとデパートのようなっていう感じですね。とにかく、安心、安全。終演時間通りにちゃんと終わって、それぞれのお客様がご予約されているめし屋さんに時間通りに行って帰ってもらえるというような。
――デパートというと、そこにはあまりハプニングがなさそうな気もしますが。
ハプニングなんかいりますか(笑)。ここまでライブをやってくるとハプニングが起こって、それを回収できたことより、なにも起こらないことの方が何倍もうれしくて刺激的なんですよ。そんなことを思っていたらハプニングがなるべく起こらないようになる魔法のような新作落語ができてしまったんです。それも今度の社会教育会館でやるつもりです。まあこの魔法はほんまに効いてほしい人には効かない気もするんですが(笑)
――(笑)。この会が一つの通過点だというのが、正直驚きでした。とても楽しみですね。
そうですね。もう、この日のことばかり考えてますもん(笑)。いや、本当、そうですよ。
――武道館があって、娘さんが生まれて、会は社会教育会館にスケールアップして、もう、本当に幸せいっぱいですね。
幸せいっぱい。一番幸せなのは、落語のことだけをより考えられる環境になっているということですね。多分、落語をやるとなった時に、一番いいキャパで、一番いい環境で、一番いい駅やと思うんですよ、社会教育会館って。時間帯も全部含めて。僕の落語をいろんな方に聴いてもらうための条件がすべて整った気がします。いろんな師匠方が独演会をやっていらっしゃるところですから、ここで定期的にできるということは、芸をやる人間として最高の舞台を整えてもらったと思っています。
【公演概要】
三遊亭わん丈定期独演会「わん丈ストリート」(第17回)
日時:2019年4月4日(木)19:15~
会場:人形町・日本橋社会教育会館ホール
出演:三遊亭わん丈
料金:前売2,000円(※整理番号付き) / 当日2,300円
予約・問合せ:ミックス寄席 03-6277-7403 yoyaku@mixyose.jp
※次回のわん丈ストリート(第18回)は、2019年06月19日(水)に日本橋社会教育会館8階ホールで行われます。
三遊亭わん丈 オフィシャルサイト http://sanyutei-wanjo.com/