真一文字の会/春風亭一之輔勉強会@国立演芸場へ
普通の会でもチケットが取りにくくなってきてる春風亭一之輔。
この会も取ろうと思ったら、“えっ!?”ってぐらいに毎度即完。
今回は“たまたま”うまいこと取れて。
即完なぐらいだから、お客さんの“(聴くぞ!)前のめり濃度”もそれなりに高い。
むしろ落語を聴くことが恒常化してる層が、国立演芸場の約330席を埋めているといっていいでしょう。
だからって、あるいは国立演芸場だしって別に気遅れることはない。
凡百の飲み屋と違って、落語は常連も一見さんも楽しみ方はいろいろ、さまざま。要は自由。
演目は、
入船亭ゆう京「弥次郎」
春風亭一之輔「加賀の千代」
春風亭一之輔「三年目」
仲入り
春風亭一之輔「宿屋の富」
ちょっと前にベン・スティーラー主演の「LIFE!」って映画があった。
一之輔の独演会はもちろん映像を必要とせず“創造(想像)と空想だけ”で、「LIFE!」が見せたような世界観に迫るあるいは凌駕してくる時がある。
開口一番は、声を張らない前座のゆう京。
扇遊師匠のお弟子さん。
大師匠の扇橋師匠が扇遊師匠の“ゆう”と京大卒ってとこからゆう京に。
上がって客席も“大丈夫か?”的な雰囲気だが、実はこの“枯れっ”ぽさが持ち味。でもまだ前座さん。
一之輔は上がって案の定、そんなゆう京いじりから。
そこから入船亭一門紹介(いじり)→今日はお客さんが濃い目と思ったか、ちょっと前の前座風景。
マニアックに15,6年前にこん平さんとこのお弟子さんで女性の当時20歳ぐらいの林家はなふぶき(後ひらり/廃業)と、先日真打になった桂右女助(当時勝好で40歳ぐらい)が一緒に前座修行していたところを。
“自分の子供ぐらいの年の女の子にですよ!”勝好!メロンパン買ってこい!“とか言われんですよ!!”
更にマクラが展開して、自宅の近所の迷子のオカメインコの張り紙について”こうオカメインコの絵が描いてあるわけですよ、でもそんなの一緒でしょ!”
”それで名前がヒデってらしんですが、連絡先が書いてあって中田さんってらしんですよ、ああ自分探しの旅に出てまだ戻らないんだなぁと”
まあ温め直しとお客さんへのソナーをかけての「加賀の千代」。
これはもう甚平さんとご隠居の駆け引きの場面、そこの表情バリエーション(顔芸)で。
どんなにジュクジュクに崩しても(この日はそんなに崩してないが)、サゲは最後に押印するように鮮やかに。
二席目は髪の毛の話しから。
”最近薄くなってきて、もう禿げるんですよ”から→男と女は別の生き物って入りで、自分の娘が口が悪くなってきた→上西って議員はなんなんだ→いや市馬さんのところ弟子の柳亭市助に似てるからの「三年目」。
中盤が平坦な噺なんだが語りとセリフで繋いで、こちらはサゲでグッと持ってくる。
何の気ないマクラが効果を増幅させる。
トリでは金に執着はないってとこの表現を日本の小咄と何年か前に公演に行ったドイツで仕入れた小咄をおしゃれに比較して並べてみてからの「宿屋の富」。
ここのところいろんなところで聴いてる噺。
この噺、どうしても宿屋に泊る大風呂敷を敷く一文無しにキャラで寄せるケースも多い。
が微細な感じ方の違いかもしれんが、一之輔の場合ちょっと想像しやすいはっきり目の書き割りというかシーンが、先にボーンとあって、そこにふっと一文無しが入ってくるように感じる。
簡単に云えば客観性、第三者視点の捉える位置の違いだろうが、常にそう捉えられるには材料の少ない場面も落語の噺には多い。
そこを視点の違い?だけでで面白くさせる。
(だからなんてことないサゲでも、スッとしたカタルシスを呼ぶ)
ひとりひとりの人生の冒険は、なにも決定的な瞬間だけでない。
日々の細かさにもドラマの血は流れてて、それの干満が局面に出てくる。
ありきたりだが、一之輔の落語にはそんなものがあるように思う。
ちなみに映画「LIFE!」のモチーフにもなったフォトグラフ雑誌「LIFE!」のスローガンは
「世界を見よう、危険でも立ち向かおう。それが人生の目的だから」
ふん、落語の国の人は江戸の昔から…
TEXT:凡梅@STREET-WISE