鈴々舎馬るこ(れいれいしゃ まるこ)
山口県防府市出身
1999年 上 京後、お笑い芸人を目指し活動。 大 学生、新聞配達員の合間にお笑い事務所のネタ見せに通う。
2001年 一 旦ギター芸人としてデビューするも事務所が倒産。
吉 原ソープランドボーイ、出会い系サイト、ADなどを経て
2003年4月 鈴々舎馬風(前落語協会会長、現落語協会最高顧問)に入門。 6月 前座「馬るこ」で 楽屋入り。
2004年7月 光文社『FLASH』にて「2005年ブレイクする芸 人」として紹介されるがブレイクせず。
2006年5月 二つ目昇進。
2010年 1月初プロデュースDVD「落語いいとこ撮り!」発売
2010年 3月第9回さがみはら若手落語家選手権優勝
2010年 6月第2弾プロデュースDVD「あした順子ひろし 米寿漫才」発売。
2011年10月平成23年度NHK新人演芸大賞決勝 進出
2012年 4月水天宮ロイヤルパークホテル第6回落語一番勝負!若手落語家選手権優勝
2012年7月プロデュースCD「新宿末廣亭深夜 寄席〜百花繚乱編〜」(avex trax)発売
2012年11月 プロデュースCD「新宿末廣亭深夜寄席〜骨太肉厚編〜」(avex trax)発売
2012年12月 初の単独CD「まるらくご」(avex trax)発売
2013年3月 プロデュースCD「新宿末廣亭深夜寄席〜眉目秀麗編〜」(avex trax)発売
2013年7月 プロデュースCD「恐笑噺」(avex trax) 発売
2013年秋 プロデュースDVD「東北落語ボランティア出前ツアー2」「快楽亭ブラックvs立川キウイ」発売予定
立川こしら師、三遊亭萬橘師ときて、鈴々舎馬るこさんという並びは、現在、広瀬和生氏プロデュースの会「新ニッポンの話芸」に出演のメンバーであり、このインタビューはその括りでのブッキングでもあるのは確かだが、今、このインターネットという現代的ツールを使って落語の情報を届けようと思った時には、非常にジャストな人選だと思っている。
特に、今回登場していただいた馬るこさんの経歴や、活動歴の多彩さには目を見張るものがある。
それは、一噺家としてという前に、一表現者としての好奇心と、バイタリティの強さが尋常ではないということであり、自らDVDやCDをプロデュースして制作したり、裏方も含めて、技術や、知識に溢れている。
その上、話半ばに登場する、実父のエピソードなども、馬るこさんがこの道に入るべきして入ったということを雄弁に語っているだろう。
現在、目の離せない存在としてじっくりとお話を伺いしようと思うも、まずは、お会いした日の直前に帰ってきたという、「東北落語ボランティア出前ツアー」という、これもまた馬るこさんの行動力を表す話題が出たので、そこから飛びついてみた。めくるめく、馬るこワールドをじっくり堪能してほしい。まずは、前篇から。
取材・文章・写真:加藤孝朗
体力ないから瓦礫とかを撤去するのも無理だし(笑)。じゃあ、落語を届けましょうと。10分でセッティングして、10分で撤収して、次の会場へ。身軽です。
―― いきなりなんですが、行ってこられたばかりという東北落語ボランティア出前ツアーについて教えてください。
ボランティアの再生産という企画で、こっちも楽しみながらボランティアをやろうという発想なんです。最初にクラウドファンディングのサイトで、出資を募ったんですよ。そうしたら50万集まって、15万余ったんで、じゃあその時の映像を編集して1000本プレスして、売り切って。で、また先日ちょうど行って来て、帰ってきたばかりなんですけれど、第2弾をまた出そうと。
ーー なるほど、そういう企画なんですね。
お金下さいって出資を募っても、先細りじゃないですか。2回目、3日目って出す人は少ないから。それを何とかしよう、なおかつ自分も楽しい感じでやろうという感じですね。
ーー 落語のボランティア出前ツアーをするということで出資を募ったんですか?
はい。ちょうど震災後に3つぐらいクラウドファンディングのサイトが出来て、震災関連の図書館を作るとかは成立してたんで、チームの一人にやり手の人がいてその人が企画して出資を集めたんです。やはり、交通費とか、宿泊費とかかかりますから。いろいろ考えて、出資の特典として、1,000円でステッカー、5,000円でDVD、10,000円でDVDと無料落語会ご招待というのをやって、最初はDVDも手焼きでやろうと思っていたんですけど、ちゃんとやろうと。
ーー なるほど。じゃあ、最初から映像を出すという前提だったんですね。
あんまり本気で撮ってなかったんですけどね(笑)。
ーー これは昨年の11月発売ですね。
はい。実際にボランティアに行ったのは3月でしたけれど。で第2弾を先週、1週間かけて行ってきました。今回は6日間で15会場。仮設住宅を回りました。住宅には必ず集会場というのがあるので、そこにお客さんを集めて、やりました。
ーー 面白い活動ですね。
最初は赤十字とかもやっていたんですけれど、やっぱり顔が見えないから。でも、体力ないから瓦礫とかを撤去するのも無理だし(笑)。じゃあ、落語を届けましょうと。
ーー 噺家さんとしては、それが本職なので、手っ取り早いと言えば手っ取り早いですよね。
はい。簡単ですよ。10分でセッティングして、10分で撤収して、次の会場へ。身軽です。
ーー 実際、落語とか笑とかを求めている人は、きっと多いですよね。
最初は大きめの仮設住宅に行ったんですが、大きい所には色んなものが行くんですよ。なので、今回はもう限界集落みたいな、10世帯しかない、物資も届かないような。そんな場所を現地のボランティアスタッフに紹介してもてもらって、 そういうところ中心に回りました。
ーー どうでしたか?
震災以来初めて笑ったとか、そういう声が聴けてよかったですね。
ーー やはり、落語は求められていましたか?
落語というより、「笑い」でしたね。今回は志ん八さんと言ったのですが、最初は落語と余興10分という構成だったんですけれど、余興の方がうけるから最終的に余興30分とかやったり(笑)。
ーー その余興というのはどういうものだったんですか?
透視術とか。へび女のコントとか(笑)。
ーー そこで得たものは、芸人としての糧になりますよね。
その通りですよ。間の取り方とか勉強になりますし。地方でのうけ方もわかってきますし。
ーー これは、非常に得難い経験をされている気がします。
確実にそうですね。美味しいものもいっぱい食べましたし。最初の時は、食堂もなかったんです。ようやくコ ンビニが再開した位だったんで。来年はうまいものを食べたいね、とみんなで話してました。今年は仮設で食堂などが結構再開しててよかったですよ。東京で物資を買って届けるのもいいんですが、そうすると現地のお店がモノが売れなくなっちゃうんです。地元経済にお金を使ってこそ真の復興支援なんですね。だから 東北で美味しいモノを食べるのも復興支援なわけです。決してグルメツアーをやりに行ったわけではないんですね(笑)。はたから見たらそう取られても仕方が 無いくらい美味しいモノを食べまくりましたけど(笑)。
ーー 例えば。
うに丼とかね。仙台だと、牛タンとか。南三陸で、町ごと流されちゃったところでおおもり食堂って、結構有名なんですよ。そこの夫婦が見に来ていて、豚を飼ってるんですよ。で、豚を毎朝、さばいてホルモン焼きとして出していて、じゃあ「花子ちゃん」食べて行ってくださいとか言われて(笑)。うまかったですよ。
ーー ありがとうございました。では、ここから通常のインタビューということで(笑)。
はい。
「テレビ出してやる」っていうから、「ありがとうございます」っていったら、「よし、じゃあ、まずケーブルの巻き方覚えなさい」と言われて。そこ、制作会社だったんですよ。
ーー 山口県出身で、99年にお笑い芸人を目指して上京。
はい。お笑い芸人になりたかったです。
ーー いったんギター芸人としてデビューするも、事務所が倒産。
はい(笑)。だいぶ端折ってますけど。
ーー ここまでで充分にパンチのある経歴なので、ここをもう少しお伺いしたいのですが。
えっと。山口で学生の時からお笑い芸人になりたかったんですよ。本当は大学も行かずになろうかなと、でも裸一貫は怖いと。で、身分を手に入れたかったんです。そのとき、大学を一つだけ受かったんで、これ行こうと。そしたら親父が教育ローンを借りてくれて何の問題もないなと思ったら、母親がそれを全部使い込んで(笑)。やばいと。で、新聞配達をしながら、新聞奨学生ということで生活をしながら、その合間にお笑いライブに出始めたんです。自分で出るところ探して、コンビ3回ぐらい変えてますけど。
ーー あ、コンビだったんですね。
はい。で、どうも人と合わせるのは出来ないぞと思って、途中で一人になるんですけど。最初自信満々で上京して来て、ウケなくて、他の人を見たらなんでもないことをやっている人がウケているんですよ。今思えば、それは技術なんですけど。で、なんかあるぞと。ネタが、新しい、古いじゃなくて。技術というものに何かあるぞと思って、で、いろんなものを見始めたんですよ。図書館で落語借りたりとか。そこからだんだん落語に傾倒していくんですけど。
ーー なるほど。
もう、落語が好きで好きで、お笑いタレントをやりながら、落語も趣味でやろうかなと、いろいろ考えていた時に、たまたま事務所のオーディションに合格するんですよ。で、「テレビ出してやる」っていうから、「ありがとうございます」っていったら、「よし、じゃあ、まずケーブルの巻き方覚えなさい」と言われて(一同爆笑)。そこ、制作会社だったんですよ。
ーー 8の字巻きとかですか?
そうそう。これが、オスキャノンで、メスキャノン(専門機材用のケーブルの名称)だからとか教えられて(笑)。要は、タダで働くADが欲しかったんでしょうね。その代わりにうちの番組に使ってやるって。で、まあまあ、そんな感じでやっていたんですけど、自分がプロデューサーになりたかったんですよ。社長が。で、自分が番組作りたいって、MXテレビの枠を買って。自分でお金を突っ込んで、自分が好きな番組を作るぞって。でも資金が回らなくなって、最後ひどかったですよ。「ぷっちょ」を番組中ずっと食べてくださいとか言われて。みんなで「ぷっちょ」食べてるような番組で(一同爆笑)。番組としては、それは終わってたんですけどね。で、ダメだ、もう解散と。で、大学も単位を落としてたんです。
ーー それすべてやりつつですか?
そうです。大学も行きつつ、新聞配達もやりつつで。で、もう辞めようとスパッと大学を辞めて。で、その時に新聞店もごたごたがあって、店長の交代があったんですよ。鬼店長が来て、結構お店もやばい状態になって、新聞配達からも逃げようと思い始めまして。その頃にはちょうどテレビに出始めたりしていたので、新聞配達も辞めたら、番組も終わっちゃって、裸になっちゃったんです。
ーー すべて同じタイミングに重なってしまったんですね。
そうなんです。で、これは人生考えなくちゃいけないなと思って、「あ、そうだオレ、落語好きだから落語やろう」と。で、番組やっていた時に、同じくタダで集められた連中で、「劇団やってました」とか、「キャリア何年です」という人が来て、芸だけじゃなくて人脈があったりとか、カメラ一台手配しますよとか言ってカメラどこかから借りてきたりして。で、僕はそういうことが出来なかったんですよね。で、これは何か下積みをしなきゃいかんと思って、「あ、落語家になれば最初3年ぐらい下積みができるじゃん」と。ということで、落語家になろうと。
ーー そこからなぜ馬風師匠のもとへ?
で、いろいろと調べていたら、鈴々舎馬風という人に行き当たるんですけが、僕は分からなかったんですよ、美空ひばりとか知らないし。でも僕の分からない話題で、お年寄りが凄いウケているんですよ。で、それを見て、「自分に足りないのはこれだ」と。でちょうど綾小路きみまろさんが大ブレークしていた時で、「とりあえずお年寄り向けの笑いを身に付けて、若者はその後だ」と思って。で、うちの師匠のもとに入門するという流れですね。
ーー なるほど。ただ、芸人もやっていて、裏方もやって、大学も行って、新聞配達もやってだと、相当大変だったんじゃないですか?
もう、キャンパスライフなんて味わったことなかったですよ。大学には行ってましたけど(笑)。
ーー 上京後は、結構ハード且つ濃厚な経験をされてますね。
そうですね。今思えば。
結局 バイトしてた方が稼げますから、ヨイショでもなんでもして「落語家で食ってく」っていう強烈な想いが無いと、この商売は難しいとぼくは思いますね。
ーー 落語の原体験は?上京される前から?
そうですね。昔から好きで聴いてはいましたけど、一番強烈だったのは、喬太郎師匠がNHK演芸大賞で「午後の保健室」をやっていて、落語ってなんでもありなんだ、むしろ落語にしかできないことがあるんだ、というのが、アタマのどっかにあったんですよね。で、東京に出て来てからは新作派の人たちとか、志らく師匠とか、ブラック師匠とか、そういうのばかり聴いていました。
ーー 入門先とはかなり差がありますね。
まあ、そうですね。ただ、そこに踏み込むと、自分の性格上、よりマニアックな方向にのめり込んでいきそうな予感がしたんです。例えば、立川流に入ってたら 「落語とは、業の肯定でなくてはいけない、それ以外は間違いである」みたいな。行き過ぎた原理主義というか。そうなると、仮に面白い、ウケそうなギャグを 思いついても、「これはうちの一門にふさわしくない」と勝手に判断して封印したりするんです、 ぼくはきっと。そうなると、初めて落語を見るお年寄り向けにできなくなるな 、という危惧がありまして。とりあえず、全国どこに行っても、初見で面白いと思ってもらえる、わかりやすいネタができるようになろうと。こっちを身につけ て、その後に好きなことをやろうと。「芸で食う」というのが最初の目標だったので、まずは、食い扶持を確保しておいて、というと言い方悪いですけど (笑)。そう考えると、やはり馬風一門だなと。
ーー じゃあ、子供のころから落語がずっと好きでという訳でなく。
そうですね。山口にいて落語に触れる機会はほとんどないですから。好きでしたけどね、図書室で子供落語とか読んで、自分でやったりとかしてましたけど。落語家になろうなんて思わなかったですね。
ーー それよりもお笑いに惹かれたと。
そうそう。ボキャブラとかありましたからね。お笑いの方が魅力的でしたね。
ーー というのがありながらも、喬太郎師匠に衝撃を受けるという流れは、どうしてなんでしょうか?
その頃から、多少あったんですよ。お笑いより落語の方が上なんじゃないかっていう意識が。
ーー 落語は、着物に座布団という非常に制約の多い芸ですからね。その制約の中で同じ量ウケるとすればそれは落語の方が上という理論も成立はしますね。あ、今、急に思い出したのですが、落語協会のホームページにある馬るこさんのプロフィール映像って、落語をやっているのに、急に立ち上がってお客さんを襲うっていう内容だったような記憶があるのですが。
そうですね。初天神をやっていて、急にお客さんに飛びかかりますね。
ーー あれは、相当にインパクトがありました。ああいったことは、一朝一夕には出来ないですよね。それは、やはり、芸人のキャリアだったりという、今までお話を聞いてきた内容の、一つ一つの点が、繋がって線になりました。
そうですか(笑)。
ーー あの発想は、いわゆる落語好きで、古典落語をやるぞという意識の人では無理でしょうし、暴れてやるぞと思ったとしても、あそこまで自然には出来ないですものね。
まあ、そうかもしれませんね。
ーーあの映像と、馬風師匠とがなかなか繋がらないんですが。
そうですかね。師匠は、とりあえずウケろという人ですから。でもあまり古典を侮辱すると怒りますけど(笑)。
ーー その侮辱のラインというのがあるんですよね、きっと。
ありますね。意外と堅いんですよ。手拭いをピンクとかにすると凄い怒るんですよ。手拭いは紺とか濃い色じゃなくては駄目だとか。
ーー 私はとにかく、子供のころから馬風師匠の声と顔の大きさが印象的で(笑)。あまり古典をきっちりというより、漫談のイメージが強いです。
そうかもしれませんね。でも、師匠は、古典やると面白いんですよ。師匠の「親子酒」は、今までで観た「親子酒」でも最高です。でも、どんなに受けても、師匠、首ひねって降りてくるんですよ(笑)
ーー そうなんですか?
やっぱり小さん師匠に似すぎちゃって、「小さんは2人いらない」と言われたのと、先輩に談志師匠、同期に志ん朝師匠、後輩に小三治師匠という存在がいたのが、師匠の中では何かあったのかもしれません。自分の個性を出すには、自分が売れるにはというのを考えた上で、今のスタイルがあるんだと思います。
ーー 落語界の激動の時代にいらっしゃった師匠だと思うのですが、馬風師匠を選ばれた決定打はなんだったのでしょう?
一平師真打昇進を観に行った時にうちの師匠が出ていて、前座時代にお金を取ったと疑われたエピソードの漫談をやっていて、そうしたら、人情噺をやっているような暖かい空気が客席に生まれたんです。包み込まれたんですよ。で、ただ笑わせるだけじゃなくて、こういうのもあるのかと驚いて、それが決め手でしたね。もちろん、他の師匠のいろんな人情噺を聴いているはずなんですけど、その人情噺的な空気が一番僕の中には、ハマったんですよ。
ーー それを拝見されてから、入門志願まではすぐでしたか?
割とすぐでしたね。ただ、入門までには半年かかりました。何度も断られたので。
ーー 断られながらも、何度も通い続けたという?
そうです。で、その間に何か面白いことをやろうと。落語家になっちゃうとバイトとかできなくなるだろうか らと、その間に、「落語家と言えば、吉原!」ということで、吉原の殿方の夢を叶えるお店で、黒服のボーイとして働き始めます。僕は、客引王子と言われてましたからね。
ーー 客引をやられていたんですか?
全般です。掃除から何から。で、立ち番は、一番つらいんですよ、寒かったりとかするので。で、「お待ちしておりました将軍様。喜び組がお待ちでございます」とか言いながら(笑)。で、また、声を出すのも稽古だと思いながら大声でやっていたら、そのストリートで、いつの間にか「王子がいる」と言われ始めて、誰のことかと思ったら、お前のことだって(笑)。
ーー この着眼点が面白いですよね。
ポッドキャスト(「新ニッポンの話芸」のメンバーでポッドキャストを無料配信している)でも散々、計算高 いというキャラで行っているんですが。これもそうです。「お前、何してたんだ?」といわれて「僕は、落研です」というと当たり前じゃないですか。「ソープランドでボーイをしてました」というと、「ちょっと詳しく聞こうか」ってなるんですよ(笑)。それだけで、前座の中でも顔が売れるじゃないですか。そういう計算もあります。尚且つ興味として、水商売の世界も覗いてみたかったし。
ーー なるほど。
最終的には、オヤジの血なんですよね。入門するときに、馬風師匠に弟子入りしたいんだと言ったら、「あの人は、こうで、こうで」と、すごく詳しいんですよ。なんで山口の電気工事士がそんな詳しのだろうと思っていて。で、入門してしばらくして打ち明けられたんですけど、「実は昔、フランス座でストリッパーのヒモやってたんだ」と。で、「いらっしやいませ」とか、幕引きとかやってたんだ、オレはと。だから、オヤジの血だったんですよ、遊び人の。
ーー それは、そこまでは知らなかったんですか?
はい。それまでは単なる電気工事士のおっさんだとおもってました(笑)。すごく器用なんですよ。他にもいろいろなことをやっていて。でも、気が付けば僕もDVD作ったりとかCD作ったりしているんですよね。
ーー PCの知識があって、ガレージバンド(音楽編集ソフト)を使って、自らCDの原盤制作が出来る噺家さんも凄いですよね。
いやいや、こしら兄さんに比べたら、全然ですよ。あの人、マイクから作りますからね。
ーー そうなんですか?
あの人は、マイクから作ったんですって。秋葉原行って。上下きった時にちょうどよく拾える角度とかを計算して(笑)。
ーー あの方も、興味は尽きないのですが、CDを制作委託を受けて作ってしまえるというのはバイタリティがありますよね。スタジオおさえたり、録音、編集から、デザイナーさんに依頼したりと、いわゆる制作過程を全てこなしてしまえるというのは。これは一噺家さんのやるべきことを凌駕していますよね。
いやいや。噺家ってそういうもんじゃないのかなと思うんですよね。だって、前座で入って太鼓叩いたりと か、根多帳つけたりとかね、時間配分したりとか、落語以外のこともやるじゃないですか。で、僕もそういう修行がしたくて入ったところがありますから。着物畳むのだって、なんでかっていうと、仕事取るためだったりするわけで、師匠にはまって、僕は太鼓叩くの上手いですからとか、字を書くの上手いですからとかいって、前座の間は仕事を取っていくわけで。だから、そういうことだと思うんですよ。ホールとか行ったら、これはチャンスと、いろいろ舞台さんとかに聞くわけですよ。「このライトなんていうんですか」「フロント、シーリング、ありがとうございます!」とか。そう やって、知識をつけて行くんですよ。
師匠から聞くと、昔は皆、落語以外のことを一生懸命覚えたらしいですよ。若手が落語だけやって生活ができるようになったのってごく最近のことで。それこそ昔はキャバレーでやる余興を必死で覚えたり、ゴルフを覚えて社長連中にヨイショしたり。ポケットにゴルフボールをたくさん入れとくらしいんですよ。で、下手な社長がOBを打ったら、ダーっと走って行って探すふりをしてポケットからボールをこっそり出して「ありましたー!」って叫んだりとか。もうそれはそれは涙ぐましい努力をしているわけですよ。「だって落語の仕事なんかねえんだから」って師匠が言ってました。結局 バイトしてた方が稼げますから、ヨイショでもなんでもして「落語家で食ってく」っていう強烈な想いが無いと、この商売は難しいとぼくは思いますね。
公演情報
『広瀬和生プロデュース「ニッポンの話芸」』
【日 程】9月 6日(金) / 10月25日(金)
【会 場】成城ホール
【時 間】開演19:00
【料 金】前売 2,500円 / 当日 2,800円 (全席指定)
【詳 細】成城ホール http://seijohall.jp/event.html