【スペシャルインタビュー】春風亭正太郎




春風亭正太郎(しゅんぷうてい しょうたろう)

本名:小杉 学史
1981年8月23日東京都目黒区生まれ
2004年3月明治学院大学文学部芸術学科卒業
2006年4月春風亭正朝に入門 前座名「正太郎」
同年6月光が丘IMA寄席にて「からぬけ」にて初高座
同年11月楽屋入り 前座となる
2009年11月二ツ目に昇進
以後、古典落語を中心に勉強会や独演会を精力的に開催。
都内の定期的な会として、毎年地元目黒で開く「春風亭正太郎の冒険」、半年毎の「正太郎in六本木」、季節毎の「正太郎コンプレックス」、月例の「正太郎の部屋」等がある。


今ほど、こんなにも多種多様な落語のスタイルを聞ける時代はないのではないかと思うくらいに、様々なセンスの噺家たちが腕を競っている。新作や改作の様なものだけでなく、古典をしっかりとやりながらもそこに「今」というエッセンスを加えていくことに成功している例も、とても多いと思う。そんな「今」に、あえて古典を中心に据えた「保守本流」を行こうとしている一人が、今回登場いただく春風亭正太郎さんだ。
彼を語るときにキーワードとして「スタンダード」という言葉は避けては通れないが、それだけでは決して済まされない何かを、正太郎さんの高座からは感じる。それが何かと口にしようとすると、とても難しい。掴めているようで、掴めていない。でも、そこには何かが確かに、ある。
そんなある種のもどかしさの元をたどるべく、じっくりとお話を伺った。
一つ一つの質問に、時間をかけて考えながらも、一たび語り始めるとよどみなく流れ出るその言葉からは、古典落語への深い愛情が感じられる。思考しながらも、あくまでも古典落語にあこがれた原点のブレない姿勢に、今後の期待をより一層感じることとなった。
取材・文章・写真:加藤孝朗

しょうがないから「自分一人で落研だ」って言って。「オレは大学に入ったら落研に入るぞ」と言いながら、そこから高校3年間は寄席に通って。

kikumaro_koihachi

―― 落語との出会いを教えてください。

落語との出会いは中学校の時で、文化祭で「死神」をやったんです。中学校の先生が落語好きで、寄席をやりたいと言い出して。でも、誰もやる人がいなかったから、僕がやったんです。

ーー その前から落語は聴いていたんですか?

「落語好きなんですよ、笑点毎週見てるんですよ」っていう、よくあるパターンです。まあ、それで世間では落語好きになってしまうんでしょうけれど。笑点を見ていて、「ああ、落語家さんって面白いな」と思っていたレベルです。僕の学校は別に学校寄席もなかったし、生の落語に触れたこともなかったですね。プロの生の落語を観たことはなかったし、別に観ようとも思わなかったです。

ーー なるほど。

まあやるからにはと思って、図書館行って、落語のテープを借りてきたんですよ。NHKが出している、志ん生と圓生と文楽かなんかを借りたんですよ。あ、いや、志ん生、文楽は貸出中で、しょうがないから圓生を借りたんです。「小言幸兵衛」と「死神」だったんです。「死神」はちょっとSFがかっているので子供からしたら、おとぎ話みたいで面白かったんです。

ーー ある種、分かりやすいですよね。

一緒に、山藤正二さんのイラストが載っていて、過去の名人の速記みたいのが羅列してある本があって、そこに「死神」も入っていたんです。ただ、それは三遊亭金馬の「ほまれの幇間」の方で、サゲが違うんです。圓生版の方が怖くて、金馬版の方は明るいんですよ。どちらの方が面白いかって言われれば圓生版の方が面白くて、「ああ、落語ってサゲもいろいろあったりするんだ」って衝撃を受けまして。その後、志ん生も文楽も借りて、少しずつ「落語ってこんな世界なんだ」ってことが分かるわけですよ。で、子供心に、圓生の死神が面白かったので、とりあえずこれを覚えてみようかなと。

ーー 文化祭で「死神」をやったんですね。

はい。今思えば、絶対に出来は良くなかったはずなんですよ。でも、先生や親御さんとかも、面白い、面白いって、喜んでくれて。いや、喜んでくれているように感じたんでしょうね。それが、凄くウケたっていう風に勘違いするんでしょうね、子供心にね(笑)。

ーー 先生が寄席をやるぞと言って、それをきっかっけに落語でもやるかとなって、いろいろ調べてと、実際の初高座までの間に、落語好きになってしまったと。

まあ、確実にそこではまっていますよね。

ーー サゲが違うものがあるとか、知識も得ていますしね。落語が好きでいろいろ調べたという訳ではないけれど、落語好きが通る過程は自然と経ています。

まあ、そうですね。そういわれれば。別に自分で意識したわけではないですが。やるからには、一応ちゃんと調べておこうという訳だったんじゃないですかね。

ーー 人前で何かをやるということが好きな子供だったんですか?

全然そういう感じではなかったんです。だから、きっかけになった先生が、今でもお付き合いがあるんですが、先生が言うには、全然人前に出るタイプじゃないし、面白いタイプでもなかったし。僕は絵を描くのが好きだったから、どちらかと言えば、絵で目立っていた方で。先生の似顔絵を描いたりして。だから、あいつ人前に出るような感じじゃなかったのにって、先生もちょっとびっくりしたみたいですよ(笑)。

ーー 誰もやらないから、先生が不憫でというのがきっかけともいえますね。

その先生は落研出身なので、話がうまいんですよ。今思えばそれこそ、落語家のネタの受け売りみたいな。今になってみたら、「あ、先生の話の出所はこれか」って分かっちゃうんですけど。でも、子供からしたら、「この先生、面白い人だな」と思う訳ですよ。だから、その先生の影響はあるでしょうね。

ーー じゃあ、中学の文化祭で「死神」をやって、大学で落研に入るまでの間には、もう寄席に通っていたりしていたんですか?

そうなんですよ。ここが僕の落語暗黒時代なんですよ(笑)。「死神」をやって、落語に興味を持って、で、僕は先生がずっと文化祭での寄席を続けてくれると思ったんですよ。僕の学校は中高一貫だったので。その死神をやったのが中3の時で、好評だったので、じゃあ、来年もやろうという感じになっていたんですが、やっぱり結局やる人が集まらなくて、その1年だけで終わっちゃったんですよ。

ーー 1年で終わっちゃったんですね。

で、中高ですから、落研がある訳でもないし、じゃあ作るかって言えばそれほどの意欲もないわけで、しょうがないから「自分一人で落研だ」って言って。「オレは大学に入ったら落研に入るぞ」と言いながら、そこから高校3年間は寄席に通って。高校生ですから別にお金を持っているわけでもないけど、月に1回は何かの落語会に行ったりとか。あとは、CDとテレビとラジオだったんですけれど。

ーー その高校時代は、「大学で落研に入るぞ」っていうのが目標だったんですか?それとも、もう既に噺家になるぞと考えていたんですか?

噺家になるとは、全然、思っていないです。「大学で落研に入るぞ」っていうくらいです。どちらかと言えば聞く方が好きでしたから、いろいろ聞いて、いずれ落研に入ったらこんな噺をやってみたいなという高校3年間でした。その頃の僕は、落語が好きな変わった生徒で、先生とかからも可愛がってもらっている方で。結構校則の厳しい学校で、クラスも進学を目指すクラスで真面目な子が多い中で、僕はちょっとチャラチャラしていて。当時としては、ズボンも腰まで下げていたし。髪の毛も少し茶色くしていたり。でも、なんとなく先生から許されてしまう風潮があって。でも一方では、茶髪の高校生が一人で寄席に行ったりしていると、「何、この兄ちゃんは?」っていう感じもあって、ちょっと隠れるような感じで観に行っていました。末廣では絶対に桟敷には座りませんでしたよ。目立つから(笑)。

ーー それが、90年代ですよね。寄席が、非常にすいていた時ですよね。

あっ、そうそう。おっしゃる通りです。すいてましたよね。

ーー 末廣なんてなくなるっていう噂がありましたからね。

そうそう、電波少年で松村さんとかがアポなしで、「なくなるんですか」とかやってましたよね。まだ、志ん朝、小さんも健在で。私なんて志ん朝師匠好きだったんで、良く観に行っていましたけど、普通に入れましたもんね、フラッと。

ーー もう、冬の末廣の空いてるときの寒いこと、寒いこと(一同爆笑)。

そうそう。寒かった。夏は冷房の前がものすごく寒くて。トイレも汚くてね。昔の映画館のような安っぽい白いシーツが座席にかかっててね。でした、でした。そうそう。

ーー その時に、そんな感じの高校生が来ていたら確かに目立ちますね。

今みたいに、そこそこ埋まってなかったですからね。今でこそ、落語ブームなのかわからないですけど、テレビでも番組があったり、いろいろあるじゃないですか。でもその頃、お金のない高校生が落語の情報を収集しようと思ったら、今みたいにインターネットとかもないですし、本当に図書館に行ってCDを借りるか、NHKの「日本の話芸」とTBSの「落語特選会(今の落語研究会)」をVHSに録画するかしか方法がなかったですから。

ーー そうですよね。「日本の話芸」と「落語特選会」は貴重な存在でした。

それも、「落語特選会」も終わるんですよね。もう、衝撃でしたもん。終わっちゃうの?って。月に一度の楽しみが終わる、って(一同爆笑)。いよいよ落語が消えゆく、って思いましたよ、あの時。落語の世界が終わる!って。その時は、ビデオの録画の為に起きてましたよ。録画を失敗するのが怖くて。夜中の3時ぐらいまで。懐かしいな、あの時代。

ーー あの時代から比べると、今は、インターネットとかもあるし、BSとかでも番組も結構ありますからね。

こんなにテレビで落語をやっている時代は、僕が落語を好きになってから、ないですよ。

ーー それは、僕も非常に思います。

だから、その意味では、少しは普及したのかなぁ、とは思いますね。

そのおじさんが高座から降りてきて、「私は、やっぱり落語家になっておけばよかったと思って、凄い後悔してます」って言ったんです。

kikumaro_koihachi

ーー そうやって落語に触れて、大学に入って晴れて落研に入って、再びやる側に回りました。明治学院の落研というと、名門というか、多くの噺家を輩出していますが。

確かに多いですが、僕が落研にいた時は、本当に落語をやる人がいなくて。時代背景も含めて、本当にいなかったんですよ。僕は、びっくりするというか、がっかりするんですよね。落研自体にも人は12〜3人くらいで。

ーー 新入生は何人くらいですか?

3〜4人くらいですかね。そんな中で、落語をやる人が各学年に1人ずつくらいしかいないんですよ。

ーー 基本的なことをお伺いしますが、落研というのは全員が落語をするわけではないんですか?

そうなんですよ。落研というのは皆で落語をやるものだと思っていたので、そこでやる人がいないことにびっくりするわけですよ。皆、何をやるのかというと、コントと漫才なんですよ。時代背景的に。

ーー そうなんですね。

コント、漫才なんですよ。お笑いが凄い盛り上がっていて、その頃はネプチューンとかが凄かった時かな。ああいうコントがバーッと出てきて、笑う犬の生活とかが人気があって、皆、コントがやりたいんですよね。コント、漫才が隆盛で、落語やる奴が本当にいなくて。僕が入った時には、2年生の先輩に一人、4年生に一人で、他は皆、落語に興味なし。一切興味なし!

ーー ああ、一切までいっちゃうんですか?

一切ですね。「落語やる人がいてもいいよ、もちろん。落語研究会なんだから」というレベル。コント、漫才をやる人ばかりになっていたので、それこそ、名称を変えようかという話にすらなっていました。「もう、落語研究会つぶそうぜ。お笑い研究会にしちゃおうよ」、と。で、いろいろと、一悶着ありまして。うちの落研はプロもいっぱい出ていて、昔はプロが教えに来ていたし、皆、きちんと落語をやるところだったけれども、時代が変わって落語がすたれて、落語をやる人が少なくなって、落研自体に人がいなくなった時期があったらしいんですよ。廃部寸前という。その廃部寸前の時に、もう落語をきちんとやるという伝統が失われてしまったんです。で、僕が入って、「こんなに、落語やる人いないんだ」と改めて思ったわけですよ。

ーー 寄席に人が入っていなかったという風潮が、落研にも及んでいたと。

そうですね。僕の大学時代に、本当にちゃんと落語をやっていた落研なんて、都内の大学ではほんのいつくかだけですよ、きっと。今でこそ皆、ちゃんとやっていますけど。学習院と、駒大と、東海大学と、日芸ぐらいだったかな。あとは軒並み潰れてましたからね。本当に、ひん死でしたよね、あの時代は。名門と言われていた明治大学の落語研究会もなくなってましたからね。

ーー そこまでだったんですね。

僕も、落研時代に、コント・漫才をやらないといけない感じだったので、やりましたよ。ただ、その経験は今、生きてますよね。落語だけをがっちりやっていると、つまらないものになっていたかもしれません。コント・漫才をやっていると、どうやると学生とか若者が笑うのかというポイントが分かるようになってきますから、それは落語に取り入れられますので。

ーー 噺家になろうという気持ちが固まったのはいつなんですか。

噺家になろうなんて思っていなかったんですよ。僕は、映画関係の学科にいて、そこで芸術についての研究をしていたのです。絵を描くのはずっと好きだったから、漫画家になりたい気持ちもあって。まあ、漫画、映画、落語が僕の趣味の三本柱なんですが、そんなのは所詮仕事にならないと僕は思ったんです。

ーー なるほど。

で、落語をやっていて人前で話すことは得意だったので、塾講師を始めたんですよ、アルバイトで。で、大学を卒業してもその塾で働いていたんです。で、このまま、塾講師として飯を食って行こうという気持ちもあったんです。子供たちと接していて楽しいし、人にものを教えるのは嫌いじゃないし。結局、卒業してから2年間そこにいたんですけれど、あるところから子供たちを数字で見なければいけないタイミングがありまして、当たり前ですけれど。その瞬間にものすごく気持ちが悲しくなって。で、自分がずっと教えてきた子供たちを全員卒業させられるタイミングが来たんですよ。じゃあ、そのタイミングで辞めようと思いました。

ーー 実は僕も塾講師をやっていて、卒業してもそのまま働いていた過去があるのでよく分かります。

ああ、同じですね。その時に、僕は、落語家になることが、どっかに引っかかっていたんだと思うんですけど、その時にふとまた寄席に行ったりなんかして、この世界に身を置いてみるのも一つの賭けかなと思って。多分、うまくいかないだろうと。でも、まだ20代のうちなら修正が効くだろうから、とりあえず20代のうちに一つだけ冒険してみようと思ったんですよ。死ぬ間際になって、「あの時なんでこうしなかったんだろう」って後悔するのはすごく嫌だったので。

ーー それを言われる方は多いですね。

で、塾講師をやっている2年間の間に、落語をやる素人さんと何人も知り合っていて、実は、素人で僕も落語をやっていたんですよ。

ーー まだ、続いていたんですね。

大学を卒業したところで辞めていたんですけど、敬老会かなんかがあって、その時に人手が足りないから、落研出身で、そこそこやっていた人を呼んで来いということになり、僕が声をかけられたんですよ。で、そこでやったら、やる快感に目覚めちゃうんですよ。こんなにおじいちゃん、おばあちゃんが喜んでくれるんだし、と(笑)。

ーー 目覚めちゃいますよね。

ああ、気持ちいいって。怖いな、快感って。そこで、塾をやめるかというタイミングで老人ホームでやった時に、一人の素人で落語をやるおじさんと一緒になったんです。もう70歳くらいの人で、ものすごくうまいんですよ。小三治師匠そっくりの「にらみ返し」をやるんです。もう、すげぇなと思って。完全コピーじゃんって(一同爆笑)。

ーー 落語の世界にも、コピーって概念があるんですね(笑)。

そうそう、本当にコピーバンドと同じ感覚ですよ。まるまるコピーで、すげぇうまい。で、そのおじさんが高座から降りてきて、「私は、やっぱり落語家になっておけばよかったと思って、凄い後悔してます」って言ったんです。その時、自分の50年後が見えたんですよ。「あ、これだ。50年後に、自分はこの人になる」って。間違いなく、これ、言ってるわって。で、それを言わない為にも、とりあえず冒険しておこうと思って、会社辞めて、その時にこの世界に入ることを決意するんですよ。だから、あの人のその一言がなかったら、今の僕はなかったと思いますよ。

ーー 確かにその言葉は、刺さったんでしょうね。

もう、凄い刺さりましたよ。凄い切なそうな顔をして言うんだもん(笑)。やっておけばよかったと。でも今は家族があるしね。途中からそんなことは出来ないからと、足を踏み出さなかったけれど、凄く後悔しているんだって。その人は、ひょっとしたら暗に僕にそんなメッセージを送ってたのかもしれないですよね。落語家になれるんだったら、なっておけと。その一言がなければ、絶対に会社を辞めてなかったですし。

ーー その一言があって、もう噺家になるぞと。

後押しされた形になりましたよね。で、会社を辞めることを決めておいて、入門先を探し始めました。

ーー そこで、落研の先輩である正朝師匠に話をすると。

良く間違われるんですけれど、先輩だからうちの師匠に入門した訳ではないんです。僕は高校の時からうちの師匠のことは好きでしたから。

ーー じゃあ、どのような経緯で?

大学の落研の顧問の教授に相談したんですよ。そうしたら、正朝師匠だったら連絡を取ることが出来るからと。ただ、正朝師匠は今までも弟子を取っていないから、まず、取らないよと。でも、相談にはのってくれそうだから、電話してあげるよって。で、後日、鈴本演芸場の前で待ち合わせをして、そこでうちの師匠が話を聞いてくれたんですよ。

ーー はい。

「僕に遠慮しないで入門したい師匠を言いなさい」と言われて、5〜6人の名前を出す訳ですよ、うちの師匠も名前を含めて。そうしたら、凄く印象的だったんですけれど、「ああ、はいはい。君のやりたいことは分かった。」って。

ーー はい。

で、「君のやりたいことは良く分かった」と。その上で「オレが取ってやってもいいぞ」って言ってくださったんです。「でも、落語家は大変だから、もちろん、考え直した方がいい。君の人生の事を考えると、頭冷やして、それでもどうしてもというんだったら、もう一回来なさい」って言われて。でも、そういわれたらね。うちの師匠が弟子に取ってくれると言ってくれているようなものじゃないですか。それを聞いたら、今更気持ちが変わるわけないじゃないですか。

ーー そうですよね。扉は開かれてますからね。

完全に開かれましたよ。で、会社辞めて、改めてうちの師匠のところに挨拶に行くと。そういうキッカケです。

ーー いろんな方にお話を伺っていて、とても印象的なのは、入門のタイミングって、なにか全てのことが繋がっているんですよ。キッカケや、後押しされることとか。その後、偶然こんなことがあったとか。そこにとても劇的なストーリーを見るんですが、今も、同じようなことを感じました。

本当に、運もあるでしょうね。うちの師匠に相談にのってもらった時に、「どこも紹介しないよ」とか、「弟子は取らないよ」と言われていたら、僕も気持ちが萎えていたと思います。うちの師匠が「君のやりたいことは分かったから、おいで」って言ってくれていなかったら、噺家になってなかったと思いますよ。僕の前にも、うちの師匠のところに弟子入り志願は何人も来ていたんですよ。でも、全部断って一人も取らなかった。だから、本当に、間とタイミングでしょうね。僕は、師匠の家を何とか探し当てて、門とか、電信柱の陰で待っていて、何遍も断られてということをやってないんですよね。今のご時世なんでしょうけれど、その後のやり取りは、うちの師匠はメールでしたからね(笑)。

ーー 時代ですね(笑)。

そして、両親を説得してから改めて来いと。両親も説得出来ない様だったら噺家にはなれないよ、と。そこからが、大変でした。それまでは、両親の思わぬ行動を取るような子供ではなかったので。反抗期もそんななかったし。髪の毛は染めていたけど、ピアスはしてなかったし、不純異性行為もそんなになかったし(笑)。だから、両親からしてみれば、落語家になるなんて予想だにしなかったので、ガーンとショックを受ける訳ですよ。本気か?と。

ーー そうでしょうね。

おふくろは関西の人間なので、若干、お笑いに関しての許容の範囲が広いんです。ただ、おやじは、日本の高度経済成長を支えたような、分かりやすいサラリーマンで、きちんと大学を出て、会社に入ってコツコツとやってきた人なので、まったく落語とかお笑いに関する興味とかはないんですよ。「そんな、芸人みたいなものに身を落として」と嘆くんです。古臭い台詞いうなぁとか思いましたけど。そんなの上手くいくわけがないし、お前が泣く姿を見たくないからと。でも、僕は、ここまで来たら、勘当覚悟だと思いましたから、僕は噺家になるよと。そこから、全く口きかなくなりましたよ。で、しょうがないから、入門の挨拶はおふくろだけ連れて行くわけですよ。師匠も、「お父さんもいずれ認めてくれる時があるだろうと、お前、それまで頑張れ」と言ってくださって。

ーー 入門はなんとか叶ったと。

はい。次の日から修業が始まるわけですけれど、うちの師匠は厳しいので、僕はヒイヒイ言いながら、毎朝早くに起きて師匠の家に行って修業してたんですよ。そこから半年ぐらいかな、うちの師匠の独演会があって、うちのおふくろが、息子がこんなにお世話になっているのにお父さんが挨拶をしないってどういうことって、夫婦げんかになりまして。で、親父も、「そうだな、こんなにお世話になっているのに」っていうことで、「挨拶遅れまして」という感じで、やっとですよ、両親ともに応援しますってなったのは。

ーー お父さんが正太郎さんの高座を見てくれたのは、いつですか。

その独演会の時でしょうね。

ーー じゃあ、その時に、名実ともに認めてくれたと。

まあ、諦めたという方が正しいでしょうね。もうしょうがないって、事でしょうね。でも、今、二ツ目になって、どちらかと言えば親父の方が熱が入っているというか、もう完全にステージパパですよ(笑)。だから、その経緯を知っている人は、ちょっとお父さん、変わりすぎなんじゃないの?って。あんなに反対してたじゃないのって。今日だって、長野の方の独演会の打ち合わせに、親父が行ってますから(一同爆笑)。

ーー 凄い変わり様ですね。

完全な、ステージパパですよ。素人なんだけれど、やりたくてしょうがないみたいですよ。ちょっと規模の大きなところになったりすると、家族の手も借りないとならないみたいなときもあるので。そういう時には、スタッフは、こういう風に配置するからとか決めて(笑)。

ーー それは、凄く嬉しいですね。

両親には本当に感謝していますよ。あんなに、嫌だったろうに、って(笑)。

古典落語が今まで伝わってきて、次に伝えていくうえで、なるべく先人たちの魂を感じて、多分この人たちはこうしたかったんだろうなぁというものを磨き上げる。

kikumaro_koihachi

ーー 厳しい修業を経て、二ツ目になられて、精力的に活動されています。正太郎さんを語るときには、「あたたかい」というキャッチコピーが使われることが多い気がしますが、僕もそれは感じています。それに、今、お話を伺っていても、例えば高校の時に茶髪だったけれど大きく道をそれないとか、非常にバランス感覚がいいのかなと感じますが。

そうかもしれませんね。そういわれるとありがたいですね。

ーー 「一瞬、毒を吐く」というような言われ方もしていますが、僕は、正太郎さんは、いわゆる毒を吐くというタイプではないと思っています。ただ、明らかに中毒性を持っているであろう何かを、高座から感じます。それが何なのかは全く分からないのですが。丁寧な高座をされる方だなという印象はあるのですが、それだけではないんですよね、明らかに。受ける印象が。ご自身が、日頃から心がけていることとか、大切にされていることはありますか?こういう痕跡を残しておこうとかではないですけれど。

「噺-HANASHI-」に載っていたこしら兄さんのインタビューを読んだのですが、僕と感覚がまるで違って、凄く衝撃を受けたんです。こしら兄さんは、「自分を表現する手段の一つとして落語を選んだ」とはっきり言ってましたよね。僕は全然違うんですよ。方法の一つじゃないんですよね。結局落語好きでしたし、落語マニアでしたから。「落語を表現するために自分は何が出来るか」しか考えられないんですよ。古典落語が今まで伝わってきて、次に伝えていくうえで、なるべく先人たちの魂を感じて、多分この人たちはこうしたかったんだろうなぁというものを磨き上げる。そして、より多くの人に伝えるためにはどうしたらいいか、そこにどうやって自分の色をほんの少し加えて出してあげようかなってことしか、考えていないですね。だから、話に大幅に手を加えて、色を変えてしまう、雰囲気を壊してしまうようなことだけは、絶対にしたくないんですよ。

ーー なるほど。

噺を作る上で僕の気を付けているのは、例えば人情噺だったら、多分この人情噺で伝えたかったことはこういうことなんだろうなぁというポイントだけは、なるべく変えないで、そこだけは押さえておこうとしているつもりなんです。滑稽噺なら滑稽噺で、先人たちがドカッと笑わせて、お客さんがサゲでスカッといい気持になっている、そこは絶対に自分も押さえておかなくてはというのはあります。具体的に自分でどうしようこうしようっていうのは、勝手に自分の体から発せられるものであって、頭で考えて出来ているものでは、ひょっとしたらないのかもしれません。凄く頭のいい人たちは、どうしたら落語を自分の色に変えられるか、自分の色を出せるか、お客さんを笑わせられるか、エンターテインメントとして考えられるかということ、物凄く考えていると思いますけれど、私は、言っても、落語は落語のままでやりたいので。

ーー 落語を今の時代に合ったエンターテインメントの一つとして落とし込もうという意識はありますか?

もちろん、そうであるべきだと思うんですよ。だけれども僕は、皆さんがイメージしている「古典落語ってこういうものだよね、落語家さんってこういう人だよね」っていうものに近づきたい。スタンダードなものを出したい。出来れば。そこに多少なりとも味の工夫とかがなければいけないとは思うのですが。うちの師匠が良く言うんですけど、そこにいろんな演出をくわえて、元の味が分からないようにしてしまっては、それは落語じゃないんだって。僕は師匠の考えは物凄く共感できるので、そういう意味では、うちの師匠に入ってよかったなと思うんですが、古典落語も、出来るのならば、真っ直ぐな王道を歩きたい、真っ直ぐな道を歩きたいという気持ちはどうしてもあります。それにどうしてもお客さんがついてこられない表現があるのならば、若干回り道はするかもしれませんけれども、出来る限りは古典落語の精神そのもの、江戸の市井の人々の感情のおもむくままに落語を演じられたらなと思います。

ーー よく書かれる「あたたかさ」というのは、古典落語に対する愛情の深さからくるものなのかもしれませんね。この前の「シェアする落語」の時には、「にかわ泥」とか珍しい噺を発掘したりもされていましたが、古典を伝承されてきた芸として伝えて行こうという真摯な姿勢があまり前面に出ずに、さらっと見せる、そういう魅力があるのかなと思ったのですが。

そうだったら、カッコいいですね。江戸前の男みたいで(笑)。落語に対して自分なりの考えが強いので、それが押し付けにならない様には、すごく気を付けています。

ーー やっぱり、そうですか。アクの強さということでいうと、正太郎さんはアクが強いタイプではないですよね。ご自身で言われていたように、スタンダードであるということに非常に近い。でも、スタンダードさだけだと、引っかからなくて、その人の高座自体が印象に残らなかったりすることが多かったりします。でも正太郎さんは、スタンダードでストレートな芸風なんですが、何か引っかかるんですよ。その引っかかる、その要素をすごく解き明かしたい衝動に駆られるんですよね。

ああ、嬉しいな、それ(笑)。僕自身がそれを、こうしているんですよとロジカルには説明できないんですけれど、噺を本当に壊さない程度に一つ風穴を作ってあげるというのは、コンセプトとしてはあります。壊れないレベルになにかちょっと自分の色を出してあげる。だから、お客様が気付くかどうかのレベルの演出の変更はしています。ほんの少しの言い回しだったり、ほんの少しの場面を加えたりだとか。でも、あの演出は斬新だったね、と言われるようなレベルには、しないように気を付けているんです。

ーー なるほど。それが、今の正太郎さんの一つのウリなんじゃないかと思います。確かに、何が引っかかったのかというと、全く言えないんですが。それは、観ていて感心する部分と、それを解き明かしてやろうという研究心でくすぐられてしまって、噺を聞きながら、笑うというよりも、じっくりと分析してしまいます。でも、分からない。

そう言ってもらえると嬉しいですね。他の人たちもそうされているかもしれないですけど、先人がやったもの、もしくは同輩がやっているものでも、拾えるものは拾って全部聞きますよ。仮に「妾馬」をやるとしたら、ありとあらゆる「妾馬」を聞きます。いろんな人の演出を聞いて、「なるほどこの人はこうしているのか」とか思いながらも、自分流に変えるにはどうするかというのは常に考えています。一つの噺をするにあったって、お客さんが不自然に感じないようにするには、分かりやすいようにするにはどうしたらいいか、ここにこういうセリフを入れたらいいのか、という検証というか、作業は徹底的にしてますね。

ーー まだまだご自身の芸が変わっていく段階だと思いますが、この先の目標というか、こうなりたいという展望を教えてください。

それは名人になりたいとか、人間国宝になりたいとか言い始めたらきりがないんですが、一番わかりやすいのは、寄席にコンスタントに出て、それこそ50歳、60歳になった時の話ですが、後輩たちから稽古を頼まれる存在になりたいですね。寄席にコンスタントに出ていて、活躍していて、古典落語の面白さを伝えられて、次の後輩たちにバトンを渡していけるような存在になりたいと思います。別にテレビに出たいとか、物凄く目立ちたいとかは思いませんが、古典落語の中核を担える存在になれたらとは、思います。これから多種多様に、落語家の種類が増える中で、一番真ん中に居て、寄席の中でも目立てる存在になりたいと思います。

ーー 保守本流ということですね。

そうですね。つまらない男ですね(笑)。過激なことはしない、石橋を叩いて渡る性格なのかもしれません。

ーー ただ、保守本流でありながらも、単なるスタンダードで終わらないような要素は既にある気がします。

まあ、自分で意識しているんですけれど、僕はあまりクセがないので、それは人によっては遊びが足りないと取られる人もいます。だから、新作などもトライしながら、もう少し幅を広げて行ければとは思っています。

ーー 新作や改作をやるかもしれないけれども、やっぱり軸にあるのは、どれだけ古典落語っていうのをストレートに伝えて行けるかということなんですよね。

そうですね。それはすごく意識していますね。

ーー 新作とかが嫌いなわけではないんですよね。

そうですね。喬太郎師匠とか追っかけていましたし、今でも新作落語の創作には憧れるんですけどね。なんでしょうね。やっぱり自分には、古典落語をやっているじいさん達が、過去の名人達が物凄くカッコよく見えたので。ああいうじじいになりたいですかね(笑)。それが、やっぱり夢なんでしょうね。志ん朝師匠とか、小三治師匠とかが寄席で一席終わった後に、スッと頭を下げて、そのまま幕が下がっていく時、言葉は悪いですが、この人たちは、今、世界で一番カッコいいじじいなんじゃないかって思ったんですよ。ああいうじじいになりたいなと思ったのが原点ですから。


春風亭正太郎 出演公演情報

2013/12/12(木) 19:30
第29回正太郎の部屋
西早稲田・珈琲家庭料理aunt, 東京都
春風亭正太郎

2013/12/15(日) 10:00
鈴本早朝寄席
上野鈴本演芸場, 東京都
林家彦丸 / 林家たけ平 / 春風亭正太郎 / 柳家小んぶ

2013/12/17(火) 19:00
寺カフェ落語
寺カフェ代官山, 東京都
春風亭正太郎

2013/12/22(日) 18:30
らくごあそびVol.5 桂三四郎×春風亭正太郎~東西☆落語王子と年忘れ~
お江戸両国亭, 東京都
桂三四郎 / 春風亭正太郎

2014/01/14(火) 19:00
らくごカフェに火曜会
らくごカフェ(神保町古書センター5階), 東京都
三遊亭天どん / 春風亭正太郎

2014/01/18(土) 18:00
なまらく落語フリークス vol.4
お江戸両国亭, 東京都
春風亭昇々 / 春風亭正太郎

2014/01/19(日) 19:00
第4回春風亭正太郎の冒険
めぐろパーシモンホール 小ホール, 東京都
春風亭正太郎 / 伊藤夢葉 / 柳亭市助
春風亭正太郎「妾馬」「宮戸川」「ふぐ鍋」、

2014/01/22(水) 19:00
庚申塚亭 水曜夜席
スタジオフォー, 東京都
春風亭正太郎 / 春雨や風子 / 三遊亭好吉 / 立川吉幸  
 
2014/01/28(火) 19:00
若手落語家対決シリーズ 春風亭正太郎vs桂宮治 「負けてたまるか!?」
道楽亭, 東京都
春風亭正太郎 / 桂宮治
※各二席