立川こしら
1996年5月に立川志らくへ入門。前座名は「らく平」。
2002年5月に二つ目昇進を果たし、「こしら」と改名する。
立川志らく門下総領弟子として活躍する傍ら、インターネットコンテンツ制作や 映像製作などを手がける合同会社第プロを主催する。
2011年真打昇進し、談志師孫弟子初の真打となる。毎月開催の独演会『こしらの集い』では、落語界初となる電子マネー『Edy』の導入や 「月刊こしら」の無料配布(バックナンバーは有料)を行っている。
立川こしら師は、志らく師の一番弟子で、「談志の孫弟子初の真打」という肩書や、レザー風の着物やその風貌が真っ先に思い出される。
それは、「異端」という言葉で表されることが多いかもしれないが、ここに掲載するロングインタビューを終えた今、「異端」という言葉の意味をもう一度思い返して、正直頭を抱えてしまっている。「異端」とは「異なった端」であり、それを定義するには、自ずと「一般とされる立ち位置」を定めないことには成立しない。その際の「立ち位置」こそが、「普通」であり「常識」と言い換えても良いこといなのだろう。
その「常識」というものが「どれほどの魅力を失わせ、どれほどのことを見えなくしているのか?」。そもそも、「異端」という言葉を発する我々が立っている場所は、「正しい」場所なのだろうか?
そんなことを猛烈に感じさせながらも、とにかく、2時間近くにも及んだインタビューは、爆笑に次ぐ爆笑で、こしら師の馴染みやすい人柄と、あざとさのまったくない受け答えで、大盛り上がり。インタビューという名の、一流のエンタ-テインメントに触れ、モノを作る端くれの私はしばし言葉を失った。
場所は、某メジャーレコード会社。普通の噺家さんだったら浮いてしまう場所で行われたというイレギュラーさをも、まったく違和感を感じさせないことすら、こしら師のマジックなのかもしれない。
あまりの内容の濃さに、前例を覆す、2回連続のインタビュー掲載とした。さあ、まずは、その前編を。
取材・文章:加藤孝朗
煎餅を渡したら、もう別にしゃべることもないんですよ、落語も聴いたことないし。でも一応お会いしたわけですから「すみません、弟子にしてください」って言ったんです
――場所(レコード会社)に完全に馴染んでますね。
そうですか? それじゃ、落語の方で違和感が出てるんでしょうね。そんなつもりじゃなかったんですけどね。困ったな。
ーー 1975年11月14生まれ。千葉県東金市出身。寄席等は行動範囲内ではないですよね。
落語を始めて見たのが入門した後なんで、落語と出身地の関係がまったくないんです。
ーー えっ? 話がいきなり、飛躍しましたけど。
僕は、東京にバンドをやりに来たんですよ。パンクバンドをやってまして。
ーー 編成は?
ギター、ボーカル、キーボード。
ーー凄いですね。リズム隊がいないですね?
いや、そんなの分かんないじゃないですか、千葉の田舎の学生には(笑)。でもオリジナルをやってましたよ。
ーー バンド名は?
3日に1度ぐらいは変えてましたね。10代の子が考えるようなものだから、今考えると面白くも何ともないですよ。「力」と書いて「チカラ」と読むとか。そんなのばっかりですよ。
ーー うまくいっていたんですか?
東京の人って皆、楽器うまいじゃないですか。だから、ちゃんとやっててもダメだなと思って、楽器を持たない事にしまして(笑)。ライブハウスに出ている時に、ちょっとメタルみたいなのや、ずっと叫んでいるようなバンドが出はじめてきて、結構お客さんも付いていて、「これじゃねぇか?」と思って。じゃあ、楽器はやらないで、自転車とボーカルとチェーンソーという編成にしようと。パートは毎回本番前にじゃんけんで決めました(笑)。
ーー アルバイトしながらバンドやっていたという感じですか?
まあ、そうですかね…。あとは、女の子に…。ちょっと甘えてみたいな(笑)。
ーー おっと! これは出ましたね、そのパターン。いわゆるロックンロール的人生によくある、「ヒモ」的な。明らかにミュージシャンのインタビューでよくある話ですよ。
それはよかった。
ーー どれぐらい続いたんですか、そのバンドは?
一年も続かなかったですね。で、もう辞めちゃって。別にバンドを本当にやりたくて来た訳ではなくて、要は「もてたい」と思って出てきているだけなんで、音楽に情熱を持っていた訳でもなく、で、ちょっと無理だなと思って辞めて、その次に劇団に入ったんです。
ーー これまた、結構唐突ですね。
いやいや、何か肩書がないともてないじゃないですか、だから俳優と。劇団入ったらもてるんじゃないかなと思って。
ーー それまでお芝居は?
やってないですね。まったく。要はですね、なんだかうだつの上がらない人達が集まるような所にいる若者はですね、「音楽」とか、「芝居」とかやっているっていうのが多いんですよ。だから、音楽がダメなら、次は芝居かな、と。そう思って劇団に入ったんですけれど、そこの演出家の方とソリが合わなくてそこを半年ぐらいで辞めて、
ーー それは小劇団ですか?
そうです。凄く小さい所で。で、その後で、えーっと、あ、「お笑い」ですよ。コントとか漫才とか。で、それをやろうと思った時に放送作家の奥山コーシン先生が教えているコント教室みたいのがあって。で、そこに行って一年ぐらいで相方が「みかんの収穫の手伝いがあるから辞める」という訳のわからない理由でいなくなってしまって(笑)。
ーー それも非常にバンドによくある、ロック的な展開ですね。
そうなんですよ。で、例によって違うジャンルを探そうと思っていた時に、奥山先生が「お前一人でどうするんだ、これから?」って心配してくれたんですよね。今まで誰かの下でやっていた訳ではないので、心配してもらったことなんかないんですけれど、相方がいなくなっちゃったことで奥山先生が心配してくれまして。で、「お前、一人でやるんだったら落語って手もあるよ。」っていってくれて。「じゃあ、やってみます」って(一同爆笑)。
ーー これまた、軽い(笑)。
で、奥山先生が「お前、落語見たことあるのか?」っていうから、「いや、ありません」と。まだその時点で落語は見たことなかったんですよ。で、その時に、うちの師匠の志らくの会の案内が奥山先生の所によく来てたんですよ。で、ある時、「オレ、行けないから、お前代わりに行って来い」って奥山先生に言われまして。5千円渡されて、これで何か気の利いたものを買えと言われて。で、千円のせんべい買って、四千円は貰っちゃっていいんだな、これはお使い賃だなって(笑)。それで、初めて師匠の会に行ったんですよ。
ーー 場所はどこだったんでしょう?
国立演芸場だったと思います。「志らくのぴん」ですね。初めて落語会です。
ーー そこから入門に至るまでの流れは?
こっちは別にさして興味もないし、「やってみたら?」と言われたから来たわけであって、受付で「奥山コーシンの使いできました」って言って煎餅だけ渡しておこうと思ったら、「楽屋へどうぞ」といわれまして。楽屋に案内されちゃったんですけれど、どの人が志らくなのかもわからないわけですよ、その時は(笑)。そうしたら楽屋にたまたまうちの師匠しかいなくて。だから、すぐにわかりまして。で、楽屋に入っていって、「はい、これ、奥山コーシンからです」って言って煎餅を渡したら、もう別にしゃべることもないんですよ、落語も聴いたことないし。でも一応お会いしたわけですから「すみません、弟子にしてください」って言ったんです(一同爆笑)。その頃僕ね、すごい髪が長かったんですよ。腰ぐらいまであって、金髪で。バンダナして。で、「弟子にしてください」って。
ーー 反応は?
師匠の瞬きが止まったのは、覚えています(笑)。
ーー 会話の流れとかではなく?
ないです。いきなりですね。で、松岡社長が入ってきて「君みたいな変わった人が落語に興味を持ってくれるのは、業界的には嬉しいことだね」とか言われて、「まあまあ、今日はこの辺にして、もうちょっと考えてからにしよう」と。
ーー 入門志願は、初めて落語を観る本番前ですよね。肝心の落語はどうでした?
これは面白いなと思いましたよ。
ーー ちなみにその日は何を演ったんでしょうか?
演目は覚えていないですね。面白いという印象しかなかったです(笑)。でもそれまでは一応お笑いをやろうと思っていたので、教室に行っていたくらいですから。海砂利水魚(現「くりぃむしちゅー」)とかフォークダンスDE成子坂とかがTVで活躍しているときだったわけですよ。僕としてはそれと比較するわけですよね。TVで観ている面白い人たちが僕の中では一番面白いと思ってたんですけども、師匠の落語を観て「いや、それ以上にこっちの方が面白いんじゃないか?」って思ったんですよ。
ーー それはいつですか?
入門は97年5月1日。観に行ったのが96年の末ぐらいですかね。あ、師匠が真打になって1年位ですね。
ーー そうなんです。僕が今日一番お聞きしたかったのは、そこで。志らく師が真打になった本当に直後じゃないですか?
ええ。すべては、タイミングです。
ーー ふつうは、真打になって1年くらいの人に入門することってそうそうあることじゃないと思うので、それは一体何なのだろうか?と真剣に思っていたんですけれど、今の話の流れを聴いていると、その疑問は全くなくなりました(笑)。
そうなんですよ。僕は、事前にリサーチとか何にもしてないんですよ。この業界のルールも全く知らずにいましたし。
ーー 下手したら、菓子折りを持っていて、師匠が一人でそこに居たから入門したわけで、いなかったら入門してないですよね。
ないですね(爆笑)。
僕からすると落語界って「ぬるま湯」なんです。地方行って、おじいちゃんおばあちゃんの前で何の工夫もない小話やって、何万ももらって帰ってくるなんて、そんな「ぬるい世界」ってあるのかって
ーー でも、初めて落語を観るその前に入門志願をしているわけじゃないですか?もしそこで落語がそこまで自分にこれだ! と思えるポイントがなかったら辞めていましたか?
いや、それはないです。入門が許されれば。ほら、それまでも何をやるにしても、それほど思い入れを持ってやってきたわけじゃないじゃないですか。音楽にしても演劇にしても、とりあえずやってみるんですよ。で、やって嫌だったら辞めようと。うまくいかなかったら、辞めようと。というのが僕の若いころのスタンスがそうだったんですかね、今、振り返ると(笑)。
ーー それじゃあ、失礼ですけれど、完全に流れですね。
はい。流れです。なんでもよかったんです。
ーー 落語は勧められたからというのはあるにせよ、誰に入門するかは完全に流れですよね。
流れです。だって、他の落語家知らないですから。
ーー 志らく師匠のことも知らなければ、立川流ということも知らないわけですよね。
知らないですよ。談志もほとんど知らなかったですから。あとから、「あ、ビートたけしさんの番組によく出てたあの人だ!」と思ったくらい知らなかったですね。
ーー 落語界の流れとか、立川流の成り立ちとかはもちろん知りませんよね。でも、お笑いを目指していて、立川流に弟子入り志願するというのはある意味、すごくラッキーな気がしませんか。例えば、それが志らく師匠ではなく落語協会の古典の大師匠さんだったりしたら、また違いましたよね。
いやいや、趣味嗜好で言ったら、僕は古典に関しては全く好みではないので。仮に何処に入ったにせよ、そんなコテコテな古典はやってなかったと思うんですよ。でも、そのぼくを受け入れてくれる土壌なのかどうかという点は確かに重要ですよね。
ーー そうですよ。立川流はその土壌がある程度はあるじゃないですか? それは、落語協会とかではなかったことがラッキーだったなと。他だといろいろあるじゃないですか?
でも、立川流とか、その団体ってことじゃないかもしれないですね。うちの師匠だったからこそ、ってことじゃないでしょうか。立川流でも他だったらダメだったんじゃないかな。それこそ師匠と同期で言ったら談春師匠や、その頃まだ2つ目でしたけど。あそこだったらクビになってたでしょうね。それとか志の輔師匠じゃ、なおさらクビでしょうし(笑)。だから、志らくだからこそ続いたんだなっていうのはありますね。
ーー それも流れですよね。志らく師匠であったということはとてもラッキーだったということでいいんでしょうか。
えーっと、師匠に関して言えば、すごく感謝してるという気持ちが50%(一同爆笑)。いやいや、すごい50%感謝しているんですよ(笑)。残りは仮に他のところに行っていてクビになっていたらどこの業界に居たんだろう、どんな自分になっていたんだろうと気持ちが50%ですね。何処の世界にオレは引っかかっていたんだろうって。そっちの方で大成功していたかもしれないですし(笑)。
ーー なるほど。話を伺っていてとても合点がいったというか、理解が出来ますね。「師匠に、すごく感謝している50%」という表現は、そこには愛情も十二分に感じられますけれど、そうではなかった場合の可能性への興味を今でも持っているというところが、とてもこしらさんのキャラクターが伝わってくる話ですね。
そうかもしれないですね。
ーー 真打になって、ここまでくるとある種自由じゃないですか?ここからは本当に自由に自分の行く先を決められる環境ですよね。土台は噺家さんであるというのはあると思いますが。
いや、そこは違います。
ーー あれれ?
土台は落語家じゃないです。土台は僕自身です。その出力する一つが落語だっていうだけで、すべて落語が基本ではなく、例えば映像作品を作るというのも、僕が作るんであって、落語家の立川こしらが作るわけではない。だから落語家の立川こしらというのも僕が出力するものの一つというイメージです。
ーー なるほど! それですごく腑に落ちました。いろんなことが。今日お話をお伺いするにあたっていろいろ考えたんですけれど、やはり「こしらさんはどういう思考・志向を持たれている方なのか」という点が最も気になることであり、引っかかるところでもあったので。でも、入門されて、前座があり、二つ目になってという一連の流れって、立川流はすごく厳しいじゃないですか?
そうですね。やりようによっては厳しくなりますよね(笑)。
ーー 前座から二つ目、真打になるには他の団体に比べて明確な条件がありますし。
僕はそれを厳しいと思わなかったんじゃないですか? だから辞めなかったんじゃないですかね。それまで、音楽から、役者、お笑いまでいろいろな世界に手を出して、実際にやってきましたけど、年数で昇進するなんてものは何一つとしてないわけで。
ーー ああ、そうですね、そういわれれば。
だから、ずっと売れないといけない、という観点で物事をとらえていたので、別に当然なんですよ、そんなに昇進できなくても。
ーー じゃあ、後輩に抜かれるということがあったとしても悔しいとは思わなかった?
当然ですよね、その結果は。
ーー なるほど。今、僕は完全に落語界のモードになって話をしてたことに気が付きました。そうですよね。例えば、落語協会で昨年にすごい人数を抜き去って真打になった一之輔師や文菊師とかは、逆になんで二つ目なんだろうって思うくらい、観客の一人としては面白かったわけですよ。でも彼らに抜かれた人たちの中には、その抜かれたという事実をかなりショックに思っている人も多いのが事実で。
いやいや、高校の留年とかじゃないんですから(笑)。「いつまでお前ら学生気分なんだよ」と思いますよ。
ーー うーん。なるほど。もう唸らされてばかりですね。僕が落語界という土壌の中で話を聴いていたからそう思ったんでしょうね。僕もずっと音楽をやってきた人間なので、音楽だって結局は売れないとしょうがないわけで。順番とかはもちろん一切関係なく。
そうなんです。僕からすると落語界って「ぬるま湯」なんです。地方行って、おじいちゃんおばあちゃんの前で何の工夫もない小話やって、何万ももらって帰ってくるなんて、そんな「ぬるい世界」ってあるのかって。で、普通に皆、バイトしないで暮らしているわけじゃないですか?なんだそれって?
ーー そうですよね!本当ですね。音楽や演技を志す人でバイトしないなんてありえないですからね。
そうそう。だからね。ゆるいから、僕、辞めなかったんですよ(笑)。
ーー ちなみに、「ぬるいから、辞めなかったんです」って発言、大丈夫ですか記事にして?
大丈夫ですよ。何に気を使っているんですか?
ーー そうですね。いや、これ、めちゃくちゃ面白い内容のインタビューになってますよ。
よく落語の世界は「厳しい厳しい」と言われますけど、僕は、そう思ったことはないですね。
だから、修行はしてないですって。その代わり、先輩に気に入られたりもしないですよ。「なんかあいつチャラチャラしやがって」みたいな感じで。
ーー 音楽や芝居を志す人間って、まずはバイトしまくって、その合間にスタジオ入ったり、稽古したりして、しまいには寝る時間すら惜しんで、バイトと夢を追いかけることを両立させるんですものね。バンドだったら、スタジオ代とか、ライブのチケットのノルマ代とかを払うために散々バイトして、結局ライブのスケジュールに仕事が入ってしまうとか、本末転倒が起こりますしね。それとか、いきなりバイト先の居酒屋で才能を見出されて、店長になれって抜擢されたりとかって話は多いわけですよ。
はいはい、多いですよね(笑)。人生の分岐点みたいな展開。ある意味、入った時に、談志のエピソードのように「食えなかったらどうするんだ」と問われた時に、「盗むか、女騙せ」っていうのを先輩から聴いていて、ああ、ここは自分には向いているのかもしれないなと思いましたよ(笑)。オレは、それはやってきたから大丈夫って(爆笑)。
ーー そうですよね。音楽をやっていた時には女性に食わせてもらっていたわけですもんね。
僕二つ目上がった時に、談志師匠の直弟子の人を結構抜いているんですよ。
ーー 立川流は、入門の時期と昇進の時期がかなりバラバラで、序列というものがある種存在していないような感じになってますよね。
そうなんです。「談志師匠の孫弟子初」というのを、僕は全部やっているんですよ。実は。
ーー まだ、「直弟子」というコピーが平気に通用しますよね?それが謳い文句かって?
そうです。
ーー 他の団体って、前座修行って大体3年位で終わっちゃうじゃないですか。それで技術は、十分に聴けるものなのかとは別問題だということがあります。ただ、立川流は厳しいですよね。
立川流の仕組みを照らし合わせてみたら僕は条件を満たしてないんですよ。僕は前座修行をほとんどしてないので、楽屋仕事とかできないですし。
ーー させられなかったんですか?
僕は師匠に近づかないようにしていたので(笑)。
ーー あれ、でも一番弟子ですよね。
はい。でも、後からどんどん入ってくるので、そんなのは下にやらせれば良いじゃないですか?
ーー あっ、そうですよね(爆笑)。
僕は行ったときは3人同時だったんですよ。3人同時で、その後すぐ一人入ってきて。その後また1年経たずに一人入ってきてと。
ーー だからあっという間に、後輩が出来ちゃったので、後輩にやらせればと。で、上からも言われることもなく。
いや、同時に入った人の一人が一番年齢が上ということで、僕はずっと「兄さん」って呼んでいたんです。そうしたら、必然的にその人が一番弟子みたいな空気になってきて、でも、うちの師匠は「先に昇進した奴が一番弟子だ」ってことを最初に言っていたんですけど。僕はそれを気にせずに、「兄さん、兄さん」と言っていたら、周りが「あ、あいつがあの一門の一番弟子だ」って思うじゃないですか。で、何かがあっても、その人にばかり行くわけですよ。だから、僕のところには何も来ない。で、師匠もその頃単独で動くことが多かったので、要はその現場に合わせればいいわけで、落語のルールというのはそんなに知らなくてもよかったわけですよ。立川流の寄席みたいなところにも師匠はあまり出ていないし、周りからは「楽屋に入れ」とは言われましたけど、「師匠が出てないんだからいいだろう」と思って、出ていなくて。で、師匠の周りにあまり居ないわけなので、師匠からしてもあまり使い勝手がいい方じゃないので、僕を地方に連れて行くことは余りなくて。それで他の奴を連れて行ったりする。で、皆、師匠の周りにいるから失敗するんですよね(笑)。叱られたりするんですよ。でも、僕は、なるべく師匠に近づかないようにしていました。師匠とは距離をとって。
ーー じゃあ、その分、その立川流で言うルールの50席覚えなければいけないということに専念できたということですか?
そうでもないですね(笑)。その頃僕、自分の劇団を持っていたんで。
ーー えっ(唖然)?
芝居をやっていたころに自分で劇団作ったりして。それが続いていたんです。
ーー 先ほどのお話だと、劇団に入っていて、そこの演出家の方とソリが合わずに辞め、お笑いに行き、という流れでしたが、劇団を作っていたんですね。
そうです。
ーー ということは、劇団を作って、その状態でお笑いをやって、その後に入門してということは、入門時には他のことも並行してずっとやっていたということですね。
ええ。そうです。別に芝居っていっても、そんなに時間のかからない芝居をやっていたんで。一週間で出来るのをやっていたんですよ。だから、この演劇祭に出たらお金獲れそうだなっていう時にだけ芝居作って出るっていう感じです。
ーー ちなみに劇団を主宰されているんですか?
そうです。
ーーということは、作・演出も?
作・演出です。はい。
ーー それは、志らく師匠も同じですよね。
まあ、志らくよりも全然先にやってましたけどね、こっちは(一同爆笑)
ーー じゃあ、こしらさんとしては、師匠に真似されたとかいう感じですか?
いやいや、そんな。師匠に話してなかったですしね。
ーー じゃあ、劇団をやっているということを、師匠は知らなかったんですか?
知らなかったですね。途中までは。
ーー 劇団もやられていたということでは、劇団ダニーローズ(志らく師の率いる劇団)みたいなものを早くやればいいのにとか、思ったりはしていたんですか?
いや、全然思わなかったですよ。
ーー 劇団とかやれば師匠の世界が広がるのに、とか、そういう気持ちは。
全くなかったです。基本、僕は、自分のことだけですから(笑)。あんまり人に興味がないんですよ。あの人こうすればいいのにとか、全く思わないですよ。それよりも自分のやりたいことがいっぱい出てくるから、人に構ってられないんですよ。
ーー 劇団やっていたりとか、前座として地方に連れていかれたりしないということはかなり自由の身ですよね。
そうですね。かなりの、自由度でしたよ。
ーー それで、修行に身が入るものなんですか? 自主的なことしかないですものね。
だから、修行はしてないですって(爆笑)。その代わり、先輩に気に入られたりもしないですよ。「なんかあいつチャラチャラしやがって」みたいな感じで。先輩から仕事とかも一切もらえないですよ。
ーー そうですよね。
だから、仕事は基本自分で探していました。当時は、志らく一門の中でも他とはソリがあわなかったですから。「あいつとは舞台一緒に上がりたくない」とか、そんなのばっかりで。
ーー かなりのアウトロー。
かなり尖っていましたから、あの頃は。
ーー 自分からしても?
そうですね。ちょっと大人げない気もしますけど。
ーー ちなみにまだロンゲだったんですか?
いやいや。それはないです。
ーー でも、無事二ツ目に昇進します。その経緯は?
僕は、別に二ツ目になる必要なんてなかったんですよ。自由にやってたから。だから師匠の独演会とか、師匠の映画を作るとかなった時はべったりとついていましたけど。どちらかというと、そういうイレギュラーな時に重宝されてましたね。自分の力も発揮できますし。そういう時は、例えば照明はこういう風にした方がいいとか、僕の方が知識があったりますし。今でも芝居のチラシとか発注受けたりしますから。役には立っているかなと。で、二つ目というのも、弟弟子の志ら乃が二つ目になりたいと。で、二ツ目になるには「こういうイベントをやったらいんじゃないか」と始めたのが昇進するための投票システムなんです。志ら乃が師匠に相談して決めたのが、これなんです。投票システムというのを導入したら、僕が勝っちゃって、僕が二ツ目になっちゃったんです。
噺家としてかなり規格外のこしら師。危険な発言が飛び交うなかでインタビューは盛り上がり、いつのまにか超ロングインタビューとなっていました。と、いうことで今回は前編ということで、次週の後編へと続きます。そしてこしら師という人物の落語が気になった方は、ライブレポートをご覧下さい!
新たなるエンターテインメントの誕生
3月は、桜の真っただ中。
渋谷では、ソニーの「来福レーベル」のイベント、「渋谷に福来たるSPECIAL」の真っ最中の中、赤坂元気劇場というライブハウスで、立川流の新真打にして、談志師孫弟子の初真打の立川こしら師と、日本で最古の活動キャリアを誇るロックバンド、ムーンライダーズのギタリスト白井良明氏が一緒にステージに立つと聞き、取材に訪れた。
到着時には、2人でリハをしていたのだが、そのリハからして、ライブにしては、やや不可思議なリハ。サウンドチェックは行いながらも、本番の流れをさらった軽い公開練習の趣。
それもそのはず、この両氏は公演2週間ほど前に初対面し、そこから約1週間で内容を詰めてきたのだから。
それは、僕が予想していたレベルのコラボレーションではなく、とてもいい意味で裏切られた気がした。
誤解を恐れずにいうと、このような音楽と落語のコラボレーションと銘打たれたものは昨今、とても増えている。ただ、それらのほとんどは、ライブはライブ、落語は落語として行い、両社が交じり合うのはトークのみ、というようなものが多い(ちなみに筆者が昨年に継続していたコラボレーションの会もそのような進行が多かった)のだが、ここで目にしたものは、完全なる両者の融合の実験であり、新たなるエンターテインメントの創造への第一歩であり、その一歩はまさに、すさまじい賭けですらあるように思えた。
果たして、本番が始まる。
開演後は、まず白井良明氏が、ループ・サンプラーというエフェクターを駆使した完全ギター一本での歌と演奏を開始。
ここでは、ソロの曲やバンドの曲を交えながらも、初めて聴くであろうお客さんを巻き込んでいくステージングのスムーズさに、思わず舌をまいた。ここまで自然と観るものの心に直接ノックしてくるライブも久しぶりだ。
このコーナーでは、4曲が演奏され、中には、ライブでおなじみの「青空のカズー」という曲があり、お客さんもカズーという笛のような小型楽器を持ってきていて、待ってましたと参加するという演出も。一人選ばれたお客さんはステージに上げられ、即興で良明氏との掛け合いを要求されるも難なくこなして、満場の喝采を受けると共に、この演出で一気に一体感をました客席とステージは、垣根を越えた。
「セットリスト」
1 story teller
2 I + i
3 青空のカズー
4 Sweet Bitter Candy
5 トンピクレンッ子(*こしらさんの呼び込み時出囃子として)
そのまま良明氏の生演奏にのって、こしら師の登場となった。
こしら師は、黒のレザーの着物姿で登場。
金髪で、軽く長めの髪型が、まるでロックスターの風貌に見える瞬間があるも、着物を着ている違和感もぬぐえないのも正直なところ。
ただ、ここでマイクスタンドの前に立つならまだしも、ステージ中央に据えられていた高座に座ることによって、落語というのはどんな突飛な恰好をしていても、着物に座布団というアイテムに囲まれることによって、既に成立しうることに気が付かされる瞬間だった。
コラボレーションの一曲目は、「やはりビートルズでしょ」という良明氏の提案で、White Albumに収録の「Rocky Raccoon」が演奏された。直訳すると、「ロックなアライグマ(タヌキ)」。
これは、初対面のミュージシャン同士の共通言語としてビートルズというものが存在していることが多く、今回の場合も、まずはそこから入ろうという趣旨。バンド経験もあるこしら師とのコラボレーションでは順当な提案にも思えたが、こしら師はビートルズをほとんど知らないらしく、事もあろうに「良明さんの第一印象が(見た目が)タヌキみたいな人だった(笑)」という発言から、「タヌキが出てくる噺が落語には多いんですよ」(こしら師)、「それならビートルズのホワイトアルバムに「Rocky Raccoon」という曲があるんだけれど、それを演奏するからその上で、タヌキの噺をしてよ」(良明氏)、という会話から成立した構成の楽曲が披露された。
かんたんに言うと、Aメロ、Bメロはこしら師が落語を語り、サビを良明氏が歌うという構成。これが、ギター一本で奏でられる穏やかなアレンジと、こしら師の流れるような口調も合いまって、驚くほどの融合に成功していた。陳腐なたとえになってしまうが、こしら師の噺はある種のポエトリーリーディングの様でいて、ただ、一回一回、噺にきっちりとした展開がついている。
高座の上の座布団に座り、上下を切りつつ(左右を見分けて話をする)語る様は、まるで落語をやっているように見えるが、生演奏と歌の間に語るという制約の中での一席。この制約が、縛り付けるネガティブは制約ではなく、何をやってもOKになってしまうこの類のコラボレーションに一種の緊張感を与える制約としてポジティブに機能し、良明氏の穏やかなプレイと共に、とても温かな雰囲気の一曲(一席)となった。
次に軽くトークを挟んで、2曲目(2席目)はマウンテンという曲に合わせて、有名な落語のオチを手短にまとめて語るという、オチ集を歌詞としてはめるというトライ。これは、こしら師は高座からおり、ハンドマイクでステージ中央へ。その絵は、まるでロックスターそのものだった。
これも基本は良明氏の演奏にこしら師の語りがのる、ポエトリー風のパフォーマンスではあったが、サビを一緒に歌うという構成で、先の曲に比べより音楽としての側面が強く出ていた。こしら師が一つの小噺をたった数分で次から次へと語り続ける様は、師がエイベックスから高速落語という3分にネタをまとめたCD集を出していることからも非常に板についた趣であり、取ってつけた感はない。そして、その語りを彩る良明氏のギターは様々なフレージングを駆使し、これが単なる企画ものの一曲にならないようにギリギリのところで、音楽性の高さを示していた点には、感服した。
とにかく、落語家さんがハンドマイクで出てくるという図が新鮮すぎるも、その斬新な構図も、こしら師の小さく固まらないキャラクターで一蹴し、掲載している写真を見ていただいても、ライブのショットとしては、全く遜色のないものばかりになった。
それは、会場での印象も変わらず、まったく躊躇せずに間奏などで良明氏のギターのリズムに合わせて体を揺らすこしら師の自然さや、そのノリの確かさは、これが音楽以外の何物でもないことを証明して見せていた瞬間に思う。
お客さんへの手拍子を促すパフォーマンスもごく自然で、ロックミュージシャンを観ている錯覚に陥った。
詳細なリハーサルと、打合せを重ねる時間がなかったというこぼれ話の通り、ところどころは構成があいまいで即興になる部分もあったにはあったが、それが、ライブ感にもつながることになり、そのスリリングさは、ロックバンドのアドリブから得られるカタルシスの様でもあった。
この2曲、約15分ほどのコラボレーションであったが、互いが互いを信用し、尊重しあい、そして何よりも自身が楽しむんだという姿勢が貫かれたコラボレーションは、観る者に、さわやかな印象を強く残し、この先にはまだ何かがあるんじゃないかという可能性をを十二分に感じさせる結果となった。
中入り休憩後は、立川こしら師の高座を一席。
前半とは打って変わって、純粋な落語会の体裁を整えての一席を披露する予定になっていたにもかかわらず、単に落語を一席とならないのがこしら師の本領発揮といったところ。
なぜか出囃子も何もなしで高座に上がり、まくらをふり始めたこしら師は、そのまま噺に流れ込むことをせず、ここでもこの会のコンセプトであるコラボレーションを試みる。
白井良明さんのライブでお客さんが持参してきたカズーを使って、落語とのコラボレーションをやってみようと提案し、客席に語りかける。お客さん一人を高座(ステージ)に上げ、先ほどは歌に合わせてカズーを吹くという演出だったものを、その場で「これから僕の話す噺に合わせてカズーを吹いてください」とリクエスト。
最初は困惑気味のお客さんも、さすがに噺家さんの喋りを笛を吹いて再現することの難しさを前に、笛をくわえたまま喋るという荒業に出て、場内は爆笑に包まれた。これはお客さんのとっさの機転の利き具合が起こした現象ではあるけれど、やはり、そういうことを思わずやってしまおうとお客さんが思えてしまうほどの自由な空気に場内が包まれていたという事実を、端的に表していた証拠であるともいえる。
それほど、この会は、すでに単なる落語会を超えた、新たなるエンターテイメントの会として、お客さんもその雰囲気を満喫していた。そのお客さんとこしら師とのコラボレーションで出来上がった暖かな空気の中で、師の披露したネタは「豆屋」。
やる気のない豆売りを理不尽な客が値切るというこの噺を、その客をドスの利いた声で、とにかくたちの悪い人物として描く演出は、こしら師のキャラクターにもマッチして、非常に現代的な噺として表現され客席をぐいぐいと引き込み、お客さんの落語へのファーストコンタクトとしては、またとない機会となったに違いない。
師の一席のあとには、再度ステージには白井良明氏が呼び込まれ、2人でその日を総括するようなフリートーク。
音楽と落語に限らず、他ジャンルのコラボレーションとは、演者同士が迎合することなく、しかし互いのフィールドへの理解や敬意がなければ成立しない。もしくは半端な結果を招くことが往々にして起こり得るが、この日の二人は終始お互いをリスペクトしあい、プロフェッショナルとしてのある種の緊張感を持ち続けながらも、そのぶつかりありを心から楽しんでいたことが改めて実感できる場面となった。
こしら師は高座に座ったままで、白井良明さんは、その一段高い高座に横座りで寄り添うようにしてトークする場面は、この夜の2人の距離感と、充実感を象徴していた盤面として非常に印象的だった。
このコラボレーションのトライは継続していきたいとの発言から二人が意気投合したことは十分に伝わってきたが、その場で口をついて出てきた「とりあえず、フジロックに出たい!」という次の目標に、会場全体が爆笑に包まれながらも、それもありかもと思わせるマジックが感じられた。
とにかく、終始会場を包んでいた暖かな空気と、こしら師と白井良明さんの絶えない笑顔が、この夜の充実度を物語っていた。
この先をまた観てみたいと会場の皆に思わせた素敵な時間だった。
文章、撮影:加藤孝朗
追記:そして、その会場で冗談のごとくに宣言された、フジロックに出たいという夢がいきなりかなってしまいました。
7月26日金曜日の、苗場食堂。多くのミュージシャンの夢、フジロックに、こしら&良明氏が立ち、いったいどんなステージを繰り広げるのか、これは絶対に見逃せない。
そして、フジロックに来られない人の為に、このコラボレーションを見られるチャンスが7月29日に、渋谷の7th Floorというライブハウスで行われる。
ここでは、ムーンライダーズの武川雅寛と白井良明のユニット「ガカンとリョウメイ」に立川こしら師が参加するとう形に。
何はともあれ、新しいモノが生み出される瞬間を見逃す訳にはいかない。
公演情報
ガカンとリョウメイ presents 『凱旋!ガカリョウ・こしらのクールじゃ、PON!』
【日 程】2013年7月29日(月)
【会 場】Shibuya 7th FLOOR
【時 間】開場18:30 / 開演19:30
【料 金】前売¥3,000- / 当日¥3,500- (1Drink別)
【出 演】ガカンとリョウメイ[武川雅寛(ムーンライダーズ)・白井良明(ムーンライダーズ)] / 立川こしら
【お問合せ】Shibuya 7th FLOOR 03-3462-4466