柳家小権太
(社)落語協会所属
1999年5月 三代目柳家権太楼に入門
2002年11月 二ッ目に昇進
2003年度 岡本マキ賞受賞
2014年 真打に昇進予定
来春に真打昇進が決定した柳家小権太さん。先日行われた四谷~新宿界隈のフリーペーパー「JG」主催の会「JG×Toshima Cross寄席」に喬太郎師と参加した。この会を機に実現したインタビューでしたが、とにかく、飲み屋を中心として共通の知り合いなどが多く、そして共通の興味や趣味も多く、2時間にも及ぶロングインタビューには収まらずに、打ち上げという名の2次インタビューを終電間近まで、そして、カメラマンとは共通の行きつけの新宿ゴールデン街のお店に消えてゆき、朝まで飲んだとか。
そんな呑兵衛キャラだとばかり思っていたら、とても含蓄に富み、とにかくその知識量には驚かせられっぱなし。
ちなみに、高階秀爾氏(西洋美術研究の第一人者であり、現在もトップランナー)のことを人の口から聴いたのは個人的にはこれが初めてかも。
アートにも、文学にも、音楽にも精通した、非常に文化レベルの高い小権太さん。日常ではこんな話が出来る人がいないらしく、インタビュー後もゆうに4時間は話し続けに。
現代アートに、文学に、映画に、JAZZにと、カルチャー全般を、語る語る&呑む呑む。
ちなみに、本編はアートの話などはほとんど出てきません。
現代美術や音楽を生業にする私としてもとても盛り上がった番外編は、後日ということで、まずは落語家・柳家小権太をどうぞ。
取材・文章:加藤孝朗
写真:上渕仁
アートにも、文学にも、音楽にも精通した、非常に文化レベルの高い小権太さん。日常ではこんな話が出来る人がいないらしく、インタビュー後もゆうに4時間は話し続けに。
現代アートに、文学に、映画に、JAZZにと、カルチャー全般を、語る語る&呑む呑む。
現代美術や音楽を生業にする私としてもとても盛り上がった番外編は、後日ということで、まずは落語家・柳家小権太をどうぞ。
写真:上渕仁
落語の知識だけは猛烈にあって。入門のイロハは16歳の時から知っている。
――1976年出身で江東区出身?
今は、目黒に住んでいますがもともとは下町の亀戸です。
ーー 僕は、高校、小松川高校(亀戸にほど近い)です。
小松川高校だったんですか(笑)。小松川高校の横に川が流れてますよね。その挟んだところの団地に住んでました。近いですね。両国高校に次ぐ難関校ですよね、六学区の。
ーー はいはい。六学区ですよ、六学区。今は聴かない言葉ですが。
なんか親近感わきますね。でも意外に江東区っていないんですよね、噺家仲間は。住んでいる人は多いですが、出身はあまりいない。僕、相撲取りだったら江東区をあげて応援されちゃってますよ(笑)。
ーー そうですよね。相撲部屋は多いし、お相撲さんは下町は地域で応援しますもんね。
江東区出身で権太楼部屋だったら、すごい応援されちゃってますよ。でも近所からも結構有名な人も出てるし、お相撲さんも出てるし、噺家っていうぐらいじゃ地域の人は応援してくれないんですよね、下町って。逆に地方だとめちゃくちゃ応援してくれるじゃないですか? でも江東区だと、噺家っていうぐらいじゃね。
ーー 噺家には確かに不親切です。
高校出るまでは亀戸で、18から20までは東大島に住んでいたんですけど、川渡ったところだったんで住所は江戸川区だったんですよ。あと、噺家になった時は一人暮らしを板橋で始めちゃったんで、もう10数年も江東区にはいないんです。だから、応援してくれないんですよ、きっと。ホームがないっていう感じですかね。
ーー 僕も江戸川区に住んでいたんですよ。
僕は、目黒に超すまでの去年一年間だけ、船堀に住んでました(笑)。おいくつなんですか?
ーー 1971年生まれです。
じゃあ、結構近いですね。一段と親近感わきますよね。六学区ですからね(笑)。
ーー 大学は日大芸術学科ですよね。学科は?
文芸学科です。3年の時に師匠のところに入って辞めちゃったんで、あまり江古田経験がないんです。あの頃は、1〜2年が所沢で3年から江古田なんですよね。4年になるときに辞めて、5月に師匠のところに入ったんです。しかも落研じゃないんで。だから、他の日芸出身の噺家とはかなり違いますね。卒業もしてないし。
ーー 入門のいきさつ、噺家を志したきっかけは?
落語大好きな高校生だったんですよ。お笑いも大好きで。本読むのも大好きで、落語は知識として持っていたんですけど。高校入って、高校は法政で、吉祥寺だったんですけど、亀戸から定期で総武線に乗ると、新宿でも降りられるし、ちょっとお金払えば上野でも降りられるし、浅草は自転車で行けるし、で、夏休みとかバイトしてお金を貯めて、東京かわら版を真っ赤になるぐらいチェックして週5回ぐらい落語見て回っていたんです。高校は法政の付属だったんで大学行くんだなと思ってはいました。文学部も3年の時に決まっていましたし。でも、噺家になるかすごく悩んで。法政の文学部にはあまり行きたくもなくて。でも芸人には成り切れず。ただ、その時にはうちの師匠の権太楼のところに行こうとは決めていたんです。
ーー そうなんですね。
はい。僕、師匠の追っかけみたいな高校生だったんです。大好きだったんですよ。あ、そうそう。それでですね、結局受験して日芸入って、落研もちゃんと行ったんですよ。新入生が8人ぐらい居て、先輩たちに一人ずつ好きな落語家を言うというのがあったんです。日芸なので、「志らくさん好きです」、「高田文夫さん好きです」、「談春さん好きです」と。僕も好きだったんですけれど、もっといっぱい噺家はいるし他の人は出てこないんですよ。「談志師匠好きです」とかしか。で、僕は「柳家権太楼が好きです」って言ったら先輩も知らなくて、「えっ? 誰?」って(笑)。なんだか変なこと言っている奴が一人いるぞっていう空気になって。で、軟式野球部に入ったんです(笑)。でも、実は、僕も志らく師匠が大好きで、追っかけしてたんですけどね。
ーー ちなみに、法政文学部ではなく日大芸術部の文芸学科に行った理由は?
もっと実践的な文章を書く勉強をしたかったんです。その時は一回噺家を諦めているので、構成作家とか、放送作家とか、コピーライターとか、あわよくば小説を書いたりとかそういう創作を学びたかったんです。
ーー 落語は完全に離れていたんですか?
そうですね。その間は、恋をしたりとかね(一同爆笑)。
ーー キャンパスライフを謳歌するというやつですね(笑)。
そうそう。初めて彼女が出来たりとか、そういう楽しい方向に流れて(笑)。バイトもしていて忙しかったし。落語のことは全然考えてなかったです。ただ、3年になった時に、また落語を思い出したように通い出し。でもCDとかでは異常に聴いていたりとか、あとはバイトしていたバーで落語したりとか(笑)。
ーー 落語は離れたんじゃなかったんですか?
落研で多くの人の前でやるというのはなかったですけど、好きだったので飲みに来たお客さん相手にバーで、火焔太鼓とかやってました。今じゃやらないですよ、火焔太鼓は(笑)。くそ生意気に。でも就職とか考え始めるような時期の3年生の12月29日にさん喬・権太楼二人会で観ちゃったんですよ、うちの師匠を。さん喬師匠は素晴らしいのはもちろんですけど。もう、素晴らしくて、権太楼が。まさに、「オレの弟子になれ」と言っているような。まあ、いわゆる勘違いですよね。それでいてもたってもいられず、学校辞めようと思って。親にも話をして、それが3月か4月ぐらいでした。で、5月に師匠のところに行くという流れです。
ーー じゃあ、事前にちゃんと両親も説得して入門志願に行ったんですね。
はい。もう落語の知識だけは猛烈にあって、両親を連れて行かなければ兎に角ダメだということも知っていて。例えば、自宅に行って土下座しなくちゃいけないとか。手紙とか電話じゃだめだとか。
ーー もう、とにかく知識だけはあると。
そうなんです。そういう入門のイロハは16歳の時から知っているので。ただ、師匠の住所を知らなくて(一同爆笑)。後をつけるのもどうかと思って、どうしようかと。で、寄席重宝帳っていう全員の住所が載っているやつがあるじゃないですか。僕はそれに噺家の住所が載っていることも既に知っていて、当時は新宿末廣のもぎりのところにぶら下がっていて、それで権太楼師匠の住所を見ようと、やたら末廣の入口のところをうろうろして、人いなくなったら近づいてとかして(笑)。それでも、怖すぎて。怒られたらどうしようって。新弟子志願でこんなことやって怒られて、しくじったらいけないんで。
ーー その段階でしくじってしまったら、もう人生お仕舞ですからね。
でもね、なんか、すごい無防備に、穴開けてゴム紐にぶら下がってるから、見たかったんですよね。どうしてもうちの師匠の住所をとにかく知りたくて。それをバーテンのバイトで夜な夜なカクテルつくりながらお客さんに、「物事とはなかなかうまくいかないものですね」とか言っていたんです。もう学校も辞めていて、噺家になろうと思っていたんで、バイト先のオーナーにも「いつになったら落語家になるんだ?」とかはっぱかけられていている時に常連さんが、「稲葉(本名)くんね、僕の兄さん講談師だから紹介するよって」って言ってくれて。宝井琴星先生という講談の先生で、紹介していただいて、日本演芸家連合の名簿があってそれを先生に見せてもらってやっと師匠の住所ゲットですよ。で、師匠のうちに行って、それが4月29日で。そしたら師匠は北海道に行っていていなくて(笑)。
ーー さすがにそのスケジュールは調べてなかったんですね。
北海道まではかわら版に載ってないじゃないですか(笑)。載っていない日は家にいるんじゃないかってそういう当たりをつけて行ったら地方に行っていたっていうオチで(笑)。そうしたらおかみさんが出ていらして、「明日帰ってくるから、11時に出直して来なさい。入れるかどうかは知らないけど」って。翌日行ったら、案の定、「やめた方が良いぞと。売れるか乞食になるかどっちかだから。」「いや、やめません。」「じゃあ、両親連れて来なさい」って。で、5月1日から鈴本で師匠がGWでトリをとっている時に2日に親と観に行って、次の日師匠に挨拶に行ってそこで決まると。もう、計算通りですね。住所を手に入れてからは。ちょっとうまくいきすぎたな、オレ、みたいな。
ーー それは、やはりそこまでのいろいろな落語に関する知識が役に立ったと。
そうですね。すぐ上の先輩がいて、当時二ツ目になったばかりだってことも知ってたんですよ。だから、今、師匠のところには前座がいないなって。これ、絶対いけるぞとか思いながら。あと、まだオレ、若いしみたいな(笑)。
ーー ちゃんとそういう計算があっての入門だったんですね。
そのわりには師匠に断られるということは想定してなかったんですよ。あと、どれだけ修行が厳しいかとかも知らなかったし。今はそれこそネットとかでいろいろと調べられるし、知ることが出来るじゃないですか。あと、この師匠ダメなら、この師匠でと考えて入るらしいんですよ。あとは、断られても入ったとか。それと比べると、僕は、絶対師匠のところしか嫌だと、それしか考えないでいってうまくいったんで、これで断られていたらどうしてたんだろうって、今思うと怖いですよね(爆笑)。
ーー いまや、ホームページのお問合せフォームから入門志願する人がいるらしいですからね。
出来るんですね、それで? 円丈師匠のネタじゃないですけれど、往復はがきで入門志願が来たっていうのは本当にありますからね。私を弟子としてとりますか、YES or NOみたいなことが書いてあって、○するって感じのものが(笑)。そんなの良く来ますよ、まあ、無視ですけどね。
ーー いろいろな方のお話を聴くと、皆さん、入門するまでのいきさつが凄く面白いんですよね。そこで既に他の人にはない、一つの幸運をつかんでいますよね。
よく噺家がよく言うんですけれど、やっぱり何が起きても、どんな怖いことがあっても、入門志願のときの師匠の家のピンポンを最初に押す、そのドキドキ感を思い出したらなんだって乗り越えられるって。だからメールの奴って、それないですもんね。ポチですからね。
ーー 大きな違いですね。
僕も駅からドキドキしちゃって地図すら読めなくなっちゃって、道に迷って、郵便屋さんに聞いたら「あ、師匠の家ね。そこ左曲がって」とかさらっと言われて、さすが郵便屋さんだなって(笑)。兄弟子もドキドキして、公園で2時間葛藤したらしいですよ。でもあれをのり超えると、なんでもできますよ。一世一代の大勝負ですからね。だから、バンジージャンプ位なら朝飯前ですよ、簡単簡単(一同爆笑)。
ーー それはもしかすると、時代が最近になってきて、変わってきますよね。
そうですね。僕の前座の時はPHSが出たか出ないかくらいだったんで、サボるとかうんぬんの連絡が取れないんですよね。メールもないから。だから、師匠の家に行って、「寄席行ってきます」っていってバッくれるわけですよね。で、寄席に師匠から電話が来ても、今買い物に行っているということにしておいてくれと、後輩とかと口裏合わせて。
ーー まさにそういう時代の狭間ですよね。前座始業されていたのは。
入門が99年で、2002年の11月に二つ目です。
稽古だけで、師匠に似るとかいうそんな単純なことではまったくなくて、生き方っていうところが大事。
ーー 権太楼師匠にそこまで惚れ込んだ理由はなんなのでしょう。
何でしょうかね。僕は、寄席にめちゃくちゃ通ってましたからいろんな師匠方を観てますからね。でも、面白かったんですよ、本当に(しみじみと)。いつ観ても。例えば師匠は掛け持ちもするので、軽い時間でも遅い時間でも、とにかくいつみても面白いんですよ。
ーー 権太楼師匠は、さん喬師匠もそうですけど、大看板なのに本当に掛け持ちされるじゃないですか?
そうなんですよね。最近は、うちの師匠は一件でやめてくれって言ってますけど(笑)。さん喬師匠は元気ですよね。
ーー びっくりする時間に出てきて、結構がっつりやったりするじゃないですか。
そうそう。さん喬師匠は。軽い時間に出てきて、こんなところで「抜け雀」やるんですかって(笑)! わがままだなぁって。
ーー さん喬師匠もそうですが、権太楼師匠や、雲助師匠は、そういうところが僕は好きです。
僕もそうですね。ただ、やはりうちの師匠がトリの日は、本当によく行きましたよ。で、はずれがない。実に、おもしろい。
ーー わかります。
で、京須さんの本とか読んでると、しみじみ思うんですよね。やっぱり素晴らしいな、さん喬、権太楼、雲助はって。すごいなって。
ーー 世代的に近いのでそのお三方は、ワクワクしながら見てました。
まだ僕が通っていた時は、志ん朝師匠もいらっしゃったし、目白(先代小さん)も生きてましたし、だから、うちの師匠や、さん喬師匠とかは50歳になったばかりとかで、弟子も取ってこれからとってまだまだ、ここからって感じでしたからね。だから、そういうのもよかったんですよね、師匠を選ぶ際に。やっぱり、おじいさんの世代よりは、勢いある人の方がいいなって。
ーー そうですよね。その時って、なにか新しい柳家が生まれるって感じがありまししたよね。
喬太郎兄さんが今50歳くらいじゃないですか? その時には、うちの師匠は2~3人は弟子をとってましたしね。で、寄席の大きな興行でもトリをとったりもしていたし。喬太郎兄さんとはタイプが違いますけど、うちの師匠は既にすごいオーラが出てましたからね。
ーー 年末の2人会っていうのが、非常に象徴的だなっておもうのですが、権太楼師、さん喬師ってご本人方もとても仲が良いけれども、ある意味両極の存在だと思っていまして、そのどちらに惹かれるかによって、その人のセンスがわかるというか。やっぱり、当たり前なんですが、権太楼師匠の破壊力を持っているのかなと感じたんですけれど。
そうですか?そうであれば、嬉しいですね。
ーー 権太楼師ではない、「小権太の芸」を確立していくことはやはり最終目標になりますよね。容易いことではないにせよ。
はい。先日ミックス寄席の加藤さんに、料理になぞらえて「こごんたを炒めつける会」という勉強会をやっていただき、4席やりまして。で、もうテクニックは出来てるからうまいねという風には言っていただけたんですが、ここからは小権太という色を出していかないとまずいねというお話をいただいて。
ーー なるほど。
そこで僕が答えるのは、うちの師匠は、ある種、滅茶苦茶のように見える癖のある芸だから、うちの弟子に稽古をつけないんです。柳家ってあんまり教えないんですよ。だからお稽古は「オレじゃなくて、ちゃんとキレイな芸を持った人のところに行け」っていうんですよね。師匠もちゃんとしてるんですけどね、当たり前ですけど(笑)。必ず、そう言うんです。癖のない、扇遊師匠とか、市馬師匠とか。
僕はよくさん喬師匠のところにも行きましたよ。あと扇辰兄さんとかの入船亭系とか。僕はそこで落語をたくさん教わって、何十席かなるまで。いずれ師匠のネタをやりたい。でも教えてくれないんで。だけど、弟子は覚えていいと言われているので、覚えたのを高座にかけて、見てもらったのを直してもらったりするんですけれど。
教わった噺はものすごくきれいというか、正攻法の楷書の芸でされるんですけれど、やっぱり師匠の芸が好きで憧れているんで、権太楼チックにやっていた時期があったんですよ。7年くらい前です。そういう時期が2~3年くらいあって。似てると。でも果たしてこれでいいのかと。そこからうちの師匠の色を抜いて、今は、教わった楷書の芸をやっているんです。で小権太を見出そうとやっているんですよ。でも似てるんです。何が似てるのかはわからないですが、自分では。
ーー 今、お話を伺っていて、すごく腑に落ちたところがありまして。権太楼師匠は爆発力というか、すごい力技を使う時があるじゃないですか。
使いますねぇ。
ーー 小権太さんからはその爆発力の片鱗を感じるというか、やはり、権太楼師匠の系譜であることを強く感じるんです。極端に言いますと、さん喬師匠の匂いがするかというとそれはないんです。
あんなに稽古に行っているのにね(笑)。
ーー そこはベースとして師匠であって、お弟子さんだからというきってもきれない関係を感じるんですよね。すごく強い何かが。
それは、わかるような気がしますね。師匠と弟子ですから。うちの師匠は、小さんの時があるんですよ。すごく、小さんに似ている時が。さん喬師匠もそうですが。その影響の出方は違うんですけれど。
ーー なるほど。さん喬師&権太楼師の対談で、同じ柳家でやり方は違うけれど、出汁は同じだという話をされてたのを読んで、なるほどと思ったんですよね。
出汁というのはいい表現ですね。
ーー 小三治師匠ですら小さんを感じるし、喜多八師匠からも小三治師匠を感じるんですよね、あの曲者、強者なのに。
はいはい、ホントに。やっぱり弟子なんですよね。それで思うんですけど、最近は、毎朝師匠の家にいったりとかの内弟子修行をさせていないところが多くあるんですけれど、うちの師匠は4年なり、3年半きっちりやるんですよ。で、何をさせられるかというと、芸人として、噺家としての生き方を学ぶんですよね。お客さんと電話をしたりとか、すべての過程を見せるとか、台所に入って女の人の気の使い方を学ぶとか、そういうのが落語の修行だと思うんですよ。芸人としての核を作ることになると思うんです。
それはそれまで持っていた考え方を捨てる事でもあって、新しく師匠の考えを根っこから植えつけられる。それをもとに生きて行って、その先に落語が表れる。だから落語をやっていて、(師匠と)一緒に居るのは当たり前だと思うんですよね。師匠の考え方を教育される。
師匠は柳家の、小さんの考え方に、自分のエッセンスをプラスして教えるんですよね。さん喬師匠もしかり。だから柳家の同じくらいの連中といて楽なのは、根っこの部分は同じというか、柳家という同じ釜の飯を食ってるその感じが出るので話が通じやすいんです。それが、古今亭は志ん朝師匠の考え方が出ていて。だから稽古だけで、師匠に似るとかいうそんな単純なことではまったくなくて、生き方っていうところが大事。それを作っていくのが噺家という生き方なんだと、最近、わかるようになりました。
ーー なんとなく、はたから見てますと内弟子修行とか、今の時代感覚で言うと、「なんでそんなことをしなくちゃいけないのか」と思うこともあるけれど、そこが重要なんですよね。ある意味、入門前は稲葉さんとしての人間形成はなされているにしても、入門を機にそれを一度白紙にして、小権太さんとしてイチから、人間形成のし直しということでもありますよね。それがあって、そこから今度は落語を覚えて、噺家さんとして、芸人としてゼロから育たなくてはいけない。そこで柳家は柳家の成分が入ってくると。
まさにそうです。常識が違いますからね。僕らと世間様とでは、全く。だから、今までの自分では全く通用しないんですよ。なので、すぐにやめて行ったり、クビになったりするんです。ツラいっていって。そこでものすごく淘汰があるんです。僕の前後もすごかった。でも今は、やめないんですよ。師匠方もクビにしないし。なので数が増えちゃってますけれど。
ーー そうですよね。入門された時期は今ほど人は多くなかったですよね。
僕らの頃も結構居ましたけど、滅茶苦茶辞めましたよ。
ーー 今は、凄いですよね。ここ数年。
今は、ものすごいですよ。弟子が来たらほとんどとっちゃうんで。俺のおふくろと変わらない歳の人が来ちゃったりとか、後輩に。で、落語協会もこれはまずいっていって今は30歳未満しかとらないってルールが理事会で決まったんです。
ーー じゃあ、もう僕は駄目ですね(笑)
芸術協会さんとか、立川流とかは、まだいけますよ、是非(一同爆笑)。権太楼とかは、「弟子なんかこっちが頼んで来てもらったわけじゃねぇんだから」って態度でやるのに、最近は弟子が来ちゃって嬉しいと思う人が増えた気がするんですよ。僕の頃とは、確実に違いますよね。家にも来させないから、しくじらないじゃないですか? 立川流さんなんて寄席もないから。師匠の家に行かなければ、前座生活ほど楽しい事なんてないです。行くからこそ、地獄ですからね。前座は。
やっぱり寄席なんですよ。好きなんです。
ーー 先日、扇辰師匠が二つ目になった時の日の思い出を高座でしみじみ語れられていました。
僕らからすると、真打になるときよりも二つ目になるときの方が圧倒的に嬉しいですよ。真打なんてプレッシャーだけですもん。嬉しいというよりも。大丈夫かよ、おれ、これで、って。お金の工面しなくちゃいけないし。今、帝国ホテル行ってきたんです。やるんですよ、披露パーティ。これだけお金出して、引き出物も。いやらしい話、お金の工面が大変ですよ(笑)。
ーー 扇辰師の高座は、天どんさんもいらっしゃっていて、真打昇進の話がメインになるはずだったのに、扇辰師がそれよりも二つ目になる方がどれだけ嬉しいかという話に執着されていて、面白かったです。
天どん兄さんとは前座修行が一緒だったんです。でも兄さんは、全然、師匠の家に行ってないんですよね。久しぶりに家に呼ばれたとかいう日は、「何したんですか」って聞いたら、「犬埋めた」って言ってて(一同爆笑)。そういう特別なことがないと家に呼ばれないって嘆いてました。円丈師匠ですし、新作ですしね。それは特殊ですよ。僕らは毎朝9時には師匠宅に行って、打ち上げまでいると24時とかですよ。でも、若いから遊びたい時期なんですよ。だから、それ終わりでまた朝まで行くんです、5時までとか。で、翌日にはまた9時には師匠の家に行くという、そういう生活を送ってましたよ。バカですよね。楽しいけれど、地獄ですよ。
ーー 前座修行をご一緒された方々とは、やはり戦友という意識ですね。今の師匠方もよくそのような話をされます。
そうですね。それは絶対にありますよね。
ーー そこからがスタートラインですよね。一つ上がるということの実感が直接お伺い出来て、何か重みが違います。
そうかもしれないですね。でも大変なだけですよ。お金はかかるし。
ーー 真打で、師匠ということになりますよね。抱負というか楽しみなことはありますか?
楽しみなのは、やはり寄席にいっぱい出たいというのはあります。立川流も好きなんです。談志師匠もずっと観ていて、でもなんでもっと頻繁に行かなかったのかというと、やっぱり寄席なんですよ。好きなんです。15分から20分の話を10日間やれる。そして、自分の落語がどう変わっていくのかを見ることが出来るのがとても楽しみです。もちろん売れないと出られませんが、そうなれると信じたいです。
ーー 寄席に対する愛情が強いのが今日の会話から非常によく伝わってきます。
大好きなんですよ。前座の時から。よくサボってましたけどね。
ーー 僕も、寄席が凄く空いていた時代を懐かしく思いだします。90年代初期は本当に大丈夫か? って時期がありましたよね。その時からすると、今は、感慨深いですね。
池袋に二人とか、ありましたからね。僕がやっている間に、一人帰っちゃったり(笑)。残されたお客さんが、これまた不憫で。でも、その人は新聞読んでたんですけどね。
ーー 私は音楽と落語を融合させたくてそのようなトライを繰り返していますが、そういうあらたな感覚を持たれている方が増えている気がします。若い世代もそうですが、それ以外にも。
僕はJazzが大好きで、北沢タウンホールを運営されているアクティオの野際さんが可愛がってくれていて、Jazzと落語の融合の会に入れてくれたんです。とても面白かったんですよ。そういうのやっていきたいですね。たまにJazzの友達のところに行って落語やったりしてましたよ。出囃子がサックスだったり、落語中に効果音でJazzが入ってきたりとか。楽しかったですよ。またやりたいです。何か、やりましょうよ。
ーー 伝統芸能としての落語を頑なに守る方と、小権太さんのように落語をJazz、映画等と対等にエンターテインメントだと捉えて新しいものにトライする方の2種類に分かれますよね。
やりたがりなんです、僕は。「落語物語」の映画もいい役で出させてもらったり、今度チェーホフの短編を落語にするんですよ。チェーホフって落語っぽいんですよ。特に小説が。それを志ん輔師匠のシェークスピア落語のレベルまでは持って行きたいんです。でもうちの師匠は結構、うるさいんですよ。古典だけやってりゃいんだよって。でも、やりますけどね。これからは真打だし、僕の人生なので。新作も書いてたんですけど。文芸学科だったし。前座の時に新作をやりたいと言ったら、「古典もできないのに新作とか言うな」と師匠に怒られたことがいまだに引きずっていて…。難しいんですよ。本当に。
ーー 今後可能性としては?
やりますよ。もちろん。どうなるかわからないですが。
出演情報
末廣亭中席
【日 程】7月11日~20日
http://suehirotei.com/7gatsunakaseki/
第百四回 福袋演芸場『原作のある噺』
【日 程】7月15日(月・祝) 開演10時
【会 場】池袋演芸場
【料 金】当日1,000円
【お問合せ】03-3833-8563(落語協会)
「殿様の茶碗」(小川未明原作) 三遊亭 粋歌
「こえんまの裁き」(古今亭志ん八原作) 古今亭 志ん八
「皿留」(竹の家すずめ原作) 林家 彦丸
「かわいい女」(アントン•チェーホフ原作) 柳家 小権太
http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Events/Futatsume/?sel=f