「落語家じゃないから炎上した」は本当か?

「落語家じゃないから炎上した」は本当か?

ヒカルとアンジェリーナ1/3から考える、落語の“境界線”

特集ページの企画が決まってからアンジェリーナ1/3の落語を聴きに行った。
その日のマクラで、彼女がこんな趣旨のことを話していた。
「(今回の落語会の企画は)落語家じゃない人が落語をやると炎上するから、あまり宣伝しなかった」
もちろん、笑いを取るためのマクラである。
客席も笑っていた。
けれど、この言葉を聞いたとき、私は少し引っかかった。
たしかに最近、「落語家ではない人が落語をやる」ということで大きな話題になった人物がいる。

YouTuberのヒカルだ。

立川志らくに弟子入りを志願し、落語に挑戦。
そして大きな舞台で落語会を開催することになると、落語ファンだけでなく、落語家からもさまざまな声が上がった。
批判的な声も少なくなかった。

だからアンジェリーナ1/3が、
「自分も落語家じゃない。下手に宣伝すると何を言われるかわからない」
と考えたとしても不思議ではない。
しかし、実際に彼女の落語を聴きながら、私は別の疑問を持った。
本当にヒカルは「落語家じゃないから」炎上したのだろうか。
考えてみれば、落語家ではない有名人が落語を披露した例は、これまでにも数多くある。
そして、そのすべてが炎上しているわけではない。
むしろ、この違いを考えてみると、落語という芸能の面白い「境界線」が見えてくる気がする。

落語家じゃなくても、落語はやっている

たとえば、綾瀬はるか—
『笑点』の正月企画で林家木久扇の指導を受け、古典落語の『たらちね』を披露したことがある。
当然、綾瀬はるかは落語家ではない。
それでも、
「女優が落語をやるなんて落語を馬鹿にしている」
という大炎上にはならなかった。
テレビの企画だから、という面はもちろんある。
だが重要なのは、そこに「木久扇師匠に教えてもらいながら落語に挑戦する」という構図があったことだと思う。

もっと以前には、テレビ局のアナウンサーたちが師匠について稽古し、実際に高座へ上がるという企画もあった。
これも同じだ。
落語家ではない。
プロの修業をしてきたわけでもない。
それでも「落語への挑戦」として成立している。

このような例は枚挙にいとまがない
落語を扱ったドラマ「タイガー&ドラゴン」では多くの俳優が落語をやり
人気アニメとなった「あかね噺」でも多くの声優が落語を演じた。


そして今回、私が実際に聴いたアンジェリーナ1/3もそうだった。
彼女はミュージシャンである。
落語家ではない。
にもかかわらず、少なくとも私がその場で感じた限りでは、
「素人が落語をやるな」
というような殺伐とした空気はまったくなかった。
むしろ客席は温かかった。
となると、
「落語家以外が落語をすると炎上する」
という説明だけでは、ヒカルをめぐる騒動は説明できない。
別の要因があるはずだ。

ヒカルは「何が違った」のか

ヒカルの落語挑戦で興味深いのは、その「スピード感」だと思う。
落語に興味を持つ。
立川志らくと接点を持つ。
落語を聴く。
自分もやってみる。
そして、大きな舞台へ向かっていく。
この展開が非常に速い。
もちろん、それ自体が悪いわけではない。
YouTuberとして成功してきたヒカルにとっては、むしろ自然な方法なのだろう。

興味を持ったらすぐ動く。
人を巻き込む。
大きな企画にする。
発信する。
観客を集める。
それこそが、彼がこれまで結果を出してきた方法でもある。

ところが、この「ヒカル的成功法則」と「落語界の価値観」の相性が、あまり良くなかったのではないか。

落語の世界には「時間をかけること」そのものに価値を置く文化があるように感じる。
前座として働き、師匠や先輩の姿を見て、楽屋仕事を覚え、何度も噺を稽古する。
もちろん、長くやれば必ず上手くなるわけではない。
しかし「積み重ね」は、落語家という職業の物語の一部になっているのではないだろうか?
そこへ突然、圧倒的な知名度と集客力を持った人物が現れる。
そして短期間で注目を集め、大きな会場に立つ。

このとき、問題になったのは「落語」だけではなかったように思う。

問われたのは「何をやったか」より「どう入ってきたか」

ここが今回、一番面白いところだと思う。
落語ファンは、本当に「部外者」を嫌っているのだろうか。
私はそうは思わない。

もし本当に排他的なのであれば、綾瀬はるかの落語も、アンジェリーナ1/3の落語も、同じように批判されるはずだ。
でも、そうはなっていない。
違うのは、「落語という世界にどう入ってきたように見えたか」ではないだろうか。

たとえば、
「師匠に教えていただきました」
「難しいけれど挑戦してみます」
「落語が好きなのでやってみたい」
という入り方には、「自分が落語の世界へお邪魔する」という構図がある。
主役はあくまで落語だ。
ところが、
「自分なら客を集められる」
「短期間でも結果を出せる」
というメッセージが前面に出れば、同じ落語への挑戦でも意味が変わって見える。
主役が「落語」から「挑戦する自分」へ移ったように感じられるからだ。
もちろん、これは実際の本人の意図とは別の話である。
大切なのは、受け手にどう見えたかだ。
文化には、その文化特有の「入り方」がある。
落語も例外ではないのだろう。

なぜ「芝浜」をやることが引っかかるのか

さらに、演目の問題もある。
落語ファンにとって、古典落語の演目にはそれぞれ異なる「重さ」がある。
初心者が演じても楽しめる噺もあれば、名人たちが何十年もかけて磨いてきた、いわゆる大ネタもある。
たとえば『芝浜』。
あまり落語を知らない人からすれば、「数ある古典落語の一つ」に見えるかもしれない。
しかし落語ファンにとっては違う。
歴代の名人たちの高座が記憶され、演者によって人物造形も夫婦の関係もサゲの意味さえ変わってくる。
そんな演目を、落語を始めて間もない人物が演じる。
これを、
「怖いもの知らずで面白い」
と感じる人もいるだろう。
一方で、
「そこまで簡単に手を出す噺なのか」
と感じる人がいても不思議ではない。

つまり、演目そのものにも「文脈」がある。
落語という芸能は、台本を覚えて喋れば成立するものではない。
少なくとも落語ファンは、そう考えている。
だからこそ、演目選びまで含めて「落語にどう向き合っているか」を見られてしまう。

それでも、ヒカルが落語をやる意味はある

ただし、ここまで書いておいて、私はヒカルの落語挑戦そのものを否定したいわけではない。
むしろ、面白い現象だと思っている。
なぜなら、ヒカルほどの発信力を持つ人物が落語に興味を持てば、それまで寄席に一度も行ったことがなかった人が、
「落語って何だろう?」
と思う可能性があるからだ。

立川志らくがヒカルの挑戦を肯定的に捉える理由も、ここにあるのだと思う。
若い観客をどう増やすのか。
寄席へ来たことのない人に、どうやって最初の一歩を踏み出してもらうのか。
これは落語界にとって決して小さな問題ではない。
そう考えれば、YouTubeで多くの人に情報を届けられる人物が落語を取り上げることは、ものすごい宣伝になる。
落語界だけでは届かなかった層へ、一気に届く可能性がある。
だから、
「落語を知らない人間が入ってくるな」
で終わらせてしまうのも、また違うと思う。

アンジェリーナ1/3のマクラを聞きながら考えた

だからこそ、冒頭のアンジェリーナ1/3の言葉に戻りたい。
「落語家じゃない人が落語をやると炎上するから、宣伝しなかった」
笑いながら語られたその言葉は、とても面白かった。
ただ、私は彼女の落語を聴きながら、
「いや、たぶん違うんじゃないかな」
とも思っていた。

落語ファンは、落語家以外が落語をすること自体に怒っているわけではない。
少なくとも、過去の例を見る限り、それだけでは説明できない。
むしろ見ているのは、
その人がなぜ落語をするのか。
誰から教わったのか。
どれくらい落語が好きなのか。
落語を自分を売るための「道具」にしているのか、それとも落語そのものを面白がっているのか。
そして何より、
その文化に対して、どんな距離感で入ってきたのか。
そこなのではないだろうか。

落語は「閉じた世界」でいいのか

一方で、この話は落語界側にも問いを投げかける。
「何年修業したのか」
「誰の弟子なのか」
「どれだけ寄席を知っているのか」
そうしたことを過度に重視すれば、落語はどんどん閉じた世界になってしまう。
新しい人が入ってくるたびに、
「そんな簡単なものじゃない」
と言って追い返していたら、文化は広がらない。
だから難しい。
伝統芸能には、積み重ねを守る力と、新しい人を受け入れる力の両方が必要なのだと思う。
ヒカルの落語をめぐる騒動は、その二つが真正面からぶつかった出来事だったのかもしれない。
そしてアンジェリーナ1/3の落語を聴きながら、そのことを改めて考えた。
落語家ではない人が落語をする。
私は、それ自体はもっとあっていいと思う。
俳優でも、ミュージシャンでも、YouTuberでもいい。
落語を面白いと思った人が、自分でもやってみたいと思う。
それほど幸福なことはない。
ただ、何百年も続いてきた文化には、その文化を大切にしてきた人たちがいる。
そこへ入っていくときには、少しだけ作法がある。
それは「素人は落語をするな」という作法ではない。
「まず、この世界を面白がってください」
という作法なのではないだろうか。
ヒカルとアンジェリーナ1/3。
同じ「落語家ではない人の落語」なのに、なぜこれほど受け止められ方が違ったのか。
その差を考えてみると、落語ファンが守りたいものが、少し見えてくる。
守りたいのは、「落語家だけが落語をする権利」ではない。
おそらく、
落語という芸能を、ちゃんと面白がってくれる人と一緒に楽しみたい。
案外、それだけなのかもしれない。