落語が禁じられた日〜人間は文化の善悪を決められるのか?〜

文章:NAGANO

笑ってはいけない噺があった

落語には、人間のどうしようもない姿がたくさん登場する。酒に溺れる男、女にだらしのない男、平気で嘘をつく男。お世辞にも立派とは言えない連中ばかりだが、私たちはそんな人々の失敗を笑い、ときにはその弱さに自分を重ねる。そこに落語の面白さがある。

ところが、その落語の一部が「ふさわしくない」とされ、高座から姿を消した時代があった。戦時中の「禁演落語」である。10月の終わりが近づくと、東京・浅草の寺に今も残る「はなし塚」のことを思い出す。

53の噺を葬った「はなし塚」

1941(昭和16)年10月、戦争へと傾く社会のなかで、落語界は遊里、酒、妾などを扱う五53の演目を禁演落語に指定した。東京・浅草の本法寺には、その噺を葬るための「はなし塚」が建立された。建立日については、公文書を紹介するアジア歴史資料センターが10月30日と記す一方、本法寺の説明には10月31日とある。日付の資料には違いがあるが、1941年10月末の出来事だったことは共通している。

これは国家が53席を個別に法律で禁止したという単純な話ではない。政府による芸能統制と自粛要請が強まるなか、落語界が自ら演目を選び、封じたのである。とはいえ、その「自主的」という言葉だけで当時の芸人たちを責めることも難しい。舞台に立ち続けるために何を守り、何を諦めるのか。今の安全な場所から、当時の選択を簡単に裁けるものだろうか。

『三枚起請』『居残り佐平次』『権助提灯』、そして『明烏』。人間の欲や滑稽さを描いた噺が、時代にふさわしくないと判断された。禁演は戦後の1946年9月まで続いたという。

甘納豆が売り切れたという伝説

その『明烏』と聞いて思い浮かぶのが、八代目桂文楽である。堅物の若旦那が吉原へ連れ出されるこの噺は、色っぽさと無邪気さ、そして人物の可笑しさが同居する名作だ。

文楽の『明烏』には、終盤の甘納豆を食べる仕草があまりに見事で、寄席の売店から甘納豆が売り切れた、という有名な逸話が伝わる。もちろん、遠い昔の高座について、筆者がその光景を目撃したわけではない。真偽を細部まで確かめるのも難しい。それでも、ひとつの仕草が客の食欲まで動かしたという話には、落語という芸の力がよく表れている。

もし『明烏』が封じられたままだったら、こうした芸の記憶はどれほど残っただろう。演目は単なる筋書きではない。演者が声と間と身体で磨き上げ、次の世代へ渡していくものだ。禁演とは、噺の題名を消すだけではなく、その先に生まれるかもしれない名演の可能性をも狭めることだった。

『芝浜』から『シャブ浜』へ

しかし、「演じてよい噺」と「演じてはいけない噺」をめぐる問題は、戦時中だけのものではない。立川談笑の『シャブ浜』を思い出す。個人的にも好きな一席だ。

『芝浜』は、酒に溺れた魚屋が浜で大金を拾い、妻から「あれは夢だった」と言われたことをきっかけに心を入れ替える人情噺。妻の機転と夫婦の情愛が、年の瀬の高座を彩ってきた。

談笑は、この筋を現代のドラッグ依存の問題へと置き換えた。『シャブ浜』でも主人公は大金を拾うが、妻はそれをドラッグによる幻覚だったと否定する。ところが、依存症は一度の決意だけで簡単に克服できるものではない。

談笑は当事者への取材を重ね、古典の美談だけではすくいきれない苦しさや回復への道を、笑いのなかに描こうとした。単に過激な題名を付けたのではなく、古典を通して現代の問題を見つめ直した作品なのである。

「禁演とする!」と言ったのは談志だった

ところが、この『シャブ浜』を一度禁じたのが、談笑の師匠・立川談志だったという。談志は多くの名人が大切にしてきた『芝浜』の題名に「シャブ」を付けることを許さず、禁演を命じた。

談笑はいったん封印したものの、師匠に怒られた顛末を周囲に話していたらしい。やがて作品を惜しむ声が談志にも届き、談志は少しずつ態度を軟化させ、最後には上演を認めたという。

この話が実に興味深いのは、談志が「落語とは人間の業の肯定である」と語った人でもあることだ。人間の弱さや矛盾をまるごと笑いにする。その思想を掲げた本人が、弟子の新しい表現に一度は待ったをかけた。矛盾だ、と切り捨てるのは簡単だが、愛する芸の伝統を守りたい気持ちもまた、人間の業なのかもしれない。しかも談志は最後には考えを変えた。

そこまで含めて、なんとも落語的な話ではないか。

手塚治虫の『鉄腕アトム』ですら

文化が時代の価値観に揺さぶられるのは、落語に限らない。いまや日本を代表する文化となった漫画も、かつては子どもに悪影響を与える「悪書」だとして排斥された。1950年代には悪書追放運動が広がり、漫画を焼く行為まで起きたとされる。

そして、漫画の神様と呼ばれる手塚治虫の代表作『鉄腕アトム』ですら、焼かれたという逸話がある。実際にその作品が焼かれたことを独立した資料で確定するのは難しいが、少なくとも手塚作品が激しい批判にさらされた時代があったのは確かだ。

今では誰もがその文化的価値を認める作品であっても、当時は「子どものため」という正義のもとで否定され得た。過去の判断を振り返るとき、私たちはしばしば「なんと愚かなことを」と思う。だが、同じ時代の中に身を置いていたら、自分は本当に違う判断ができただろうか。

人間は、そんなに偉いものだろうか

作品の内容に批評や議論が必要ないと言いたいわけではない。表現によって誰かが傷つくこともあるし、社会には考えるべき問題がある。ただ、文化そのものに「良い」「悪い」の札を貼り、後世に残す価値まで決めてしまうことには、どうしてもためらいがある。

落語は、人間がいかに立派でないかを何百年も語り続けてきた。その人間が、文化の価値を最終的に判定できるほど偉い存在なのだろうか。談志のいう「人間の業の肯定」を思えば、なおさらそう感じる。

はなし塚に葬られた噺の多くは、いまも高座で生きている。かつて「ふさわしくない」とされた『明烏』に客は笑い、名作を大胆に変えた『シャブ浜』にも新しい聴き手が集まる。時代の判断が絶対ではなかったことを、芸そのものが証明しているように思う。

誰かが文化に判決を下そうとするとき、その判断を下すのもまた、弱く、間違え、時には考えを変える人間なのだということだけは、忘れずにいたい。

 

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