3/28「大江戸寄席と花街のおどり-その十-」出演の柳家権太楼インタビュー。


3月28日(日)に明治座で、「大江戸寄席と花街のおどり-その十-」という公演が開かれる。

これは、落語を中心とした数々の寄席芸と、花柳界に伝わる芸能を上演する伝統芸能公演で、落語はもとより、太神楽、和太鼓、踊り、幇間芸などが観られるバラエティ豊かな内容となっている。この公演に初回から通算で4回目の参加となる柳家権太楼に、この公演のこと、コロナ禍での心境や、落語に対する想いを訊いた。

簡潔ながらもとても力強い返答と、その潔い姿勢に権太楼の覚悟というものが見えた気がした。

取材・文章:加藤孝朗(ハナシ・ドット・ジェーピー)


――現在2回目の緊急事態宣言下で寄席も休みになっている状況ですが、どのようにお過ごしですか?

どうやって過ごそうかね(笑)。困ってますよ。僕らは落語を喋っていないと生活の糧がないので、だから、1日何もないと困っちゃうのよ。前はね、いろんなことしてたのよ、ゴルフしたり、運転もしたり。でも、運転やってて、あ、オレ、下手だなって思っちゃって(笑)。ゴルフも途中で気が付いちゃったのよ、オレはあまりゴルフが好きじゃないって。上手くないのはわかってたけど、好きじゃないというのに気が付いちゃったから、もう、いいやって、ね。

――ご自宅でゆっくりされてるんですか?

ゆっくりとはしていますが、悶々としています。ゆっくりはね、明日に何かある人は、今日ゆっくりできますよ。明日も何もなければ、悶々とするよりほかにないからね。

――ホール落語もキャンセルは増えてますか?

増えてます。特に、地方の落語会はほぼ全滅ですよ。そりゃそうですよ、東京の人が行くということ自体を、地方の方は怖がりますからね。去年の3月の話ですが、扇遊さんの知り合いのお医者さんのところでやる小さな落語会があって、それまで扇橋師匠などがずっとやっていた会で、僕は去年行くことになっていたけれどコロナの影響で落語会がキャンセルになったんです。でも、電話がかかってきて、落語会はなくなったけれどふぐだけ食べにいらっしゃいませんかと、そのお医者様が仰ってくれて、予定は空いてますかと聞くから、もちろん空いてますよ、と。なんなら1週間空いてますよって(笑)。移動の切符はあらかじめ送られて来てるわけですから、行きます行きますと、返事をしたんですよ。そうしたら、お店の方から東京の人は来ないでくれって言われたから駄目だと連絡が入りまして。だから我々東京の人間は、ふぐの毒よりも怖がられていると(笑)。

――そんな中で、落語やいろんな芸事も含め、様々なエンターテインメントが「不要不急」だという言われ方をされています。「不要不急」とはかなりショッキングな表現であると思うのですが、このことに対してどう思われますか?

「不要不急」とはまさに、その通りだと思います(笑)。

――いや、そんなことはない、という気持ちはないのでしょうか?

いや、ないね(笑)。だって、我々の商売はなくてもいい商売なんですよ。ただ、人間と動物との違いの一つに、娯楽だとかを楽しもうとする文化をもっているという点があると思うんですね。その文化を不要不急という意味合いの中に入れられちゃったらば、どうも反論できない。

ただ酒を飲んで歌をうたったり、または落語を見て終わった後で一杯やりながら、「あいつはダメだな」とか言いあうっていうのは文化としては実に正しいことなんですよ、人間の営みとしてね。それを否定されてしまったら、何も言えない。それぐらいコロナというのは、悪い子なんだろうね(笑)。

――権太楼師匠ががんで闘病されていた時に、僕は師匠を高座で見るたびにとても勇気づけられたという経験があります。落語というのはそういう効能もあるということにちょっと驚いた記憶があります。こういう事態の中で、落語というものはそもそもどういった力があって、どういう効能があるものだとお思いでしょうか?

あたしが落語をやって人様がそれを観る。それは観る人たちなりの人生が、それぞれにあるわけですよね。要するに、今日は楽しいからボーっと観に行こうというものもあれば、今日はつらいから落語を聴いて世の中から少し逃げ出してみたいんだという人たちもいらっしゃるかもしれない。それぞれの人生を背負ったままあたしの落語と接する訳ですよ。その中であたしの落語で抱腹絶倒してくれて、楽しい顔をしてくれて、自分でね、「ああ、オレ、笑ってるよ」って気づくこともあるかもしれない。それぞれが、それぞれに事情を抱えながらも、皆で一緒に笑う。これが、いいですよ。

おじさんが一人で寄席に来て、一人で笑うって、実は、なかなかないからね。でもね、団体で来ちゃだめだよ(笑)。もしかしたら落語や寄席というものは、皆で団体でお弁当を持ってって楽しむものではないのかもしれない。それよりは、一人で楽しむ。または行ったら同好の人がいて、「ああ、こいつらも同じだ!」と密かに思うっていうね、そういう楽しみがある空間ですよ、寄席というのは。それこそが、寄席というものを愛している人たちだよね。

一人ずつが、それぞれの人生を背負いながら落語を観て勇気づけられる。「あ、こいつ病気なのに元気じゃん」、とかね。私は2度もがんの経験をしてきて、2年間闘病生活をしていて、でも無理にから元気にしていようとしていたわけではないんですよ。病院の先生には、「気分転換に落語なんか見た方がいいですよ」といわれたんですよ。でも、それだったら、やらせてくれないかって思ったよ。それの方がよほどオレは勇気づけられるし、元気になるから、って。落語をやっていると、やっているオレ自身が、「あ、オレ、こんなに元気だ」って思えるようになったりする。人を元気にするし、やっている自分も元気にする。落語の効能は、千差万別です。

――確かに、いろいろですね。

もっと言えば、お金を払って下手な落語を聴いていると、いらだつでしょ。「何なんだ、こいつは、勉強してこい!」って思うでしょ。その時の優越感ときたらないよね。だから、「これはいい落語だなぁ」とか思って観ちゃいけない。「バカじゃない、こいつは」って思ってみないと。そうすると、すごく発散できるから(笑)。

――しばしば「爆笑派」と語られることがありますが、このフレーズはどう思われていますか?

いいんじゃないかな。「爆笑派」って、人情噺のうまい人の正反対みたいで、ね。僕はね、楽しくなくちゃいけないんだよ。落語をのべつ聞いている人を相手にしているんじゃなくて、たまさか本当に寄席に来たら面白かったと。何の噺か分からなくても、面白かったと思ってもらえる落語ができたら一番うれしいなと思っています。でも、あたしも、もう年でね、そうは維持できないよ、「爆笑派」っていうのをさ(笑)。

――「爆笑派」といわれることに対して、師匠はこだわりを持たれているのではないかと思っていました。

あたしの落語が面白いと言ってもらえるとしたら、それは、あたし自身が楽しんでいるからですよ。例えば「不動坊」をやっている時とかね、登場人物が話している内容とかがね、なんてこいつら面白いんだろうって思って、笑っちゃうんですよ。稽古しながらでも、そうです。バカじゃねぇかなってね。でも、そういう落語を目指しているんです。

――昨年の9月5日、よみうり大手町ホールで行われた『大手町独演会「ザ・柳家権太楼其の7」』の質疑応答のコーナーで、「聞かせる落語よりも、笑わせる、うける落語をやりたい、生きていればいつか見つかります」という非常に強い宣言のような言葉を残されています。非常に感銘を受けました。この先、どうありたいというお気持ちですか?

まずは、スペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリアと同じで、完成しないでずっと修復し続けている建造物と同じだと思ってる。ずっと完成しない。どこかで修復していかないと、いけないんだというのがあるんです。この噺でウケなくなったら、どうしてウケないんだということの突き詰めをして、もう一回立て直そうと思わないといけない人なんです。この前も、有楽町の朝日名人会で「くしゃみ講釈」をやって絶対にウケると思っていたのに見事に外れて、もうシーンとしたんですが、どうしてなんだろうと思って、帰りに有楽町から家までずっと歩いたんです。稽古しながら。もう、稽古しかないって。だから、そういう意味で、オレは人情噺もできるんだっていう発想よりも、面白い噺を面白いように演じて、面白いように聞いていてくれる、この年になってまでこんなにくだらないのかってぐらい面白ければいいなと思っている。

――まさに、サグラダ・ファミリア。完成しない。

うん。なにしろ、それぐらいにやらないと、自分がだめになっちゃう。

――落語以外のことは考えていない生活をされています。

ずっとそうしているんでしょうね。生意気な言い方をしたら、オレは前世でどんだけ悪いことをしてきたんだろうって、思っているんですよ。落語家だとか、演劇の人たちは、皆、前世で何か悪いことしてきたんですよ。悪いことしてきたから現世になって、人々のために尽くせと。笑いだとか、感動だとか、そういうものを提供しろと。野球の選手たちとかは違うんですよ。プロにはちゃんと終わる理由があるんです。体力の限界もあれば、打てなくなるとか、そういう現象がある。でも芸能をやる人たちというのはそうじゃないんですよ。僕、もう、疲れたからやめますと言ったら、これは、逃げたということになる。やめるんじゃないんです。最後、終わるのは死んだときなんですよ。そこで初めてあたしたちはホッとして、休めるんです。それまでは、芸人稼業をやった以上は、よっぽど前世で悪いことをやったと諦めるしかない。だから、尽くそう。自分の修行のために、自分をささげようということね。例え、疲れていようと、仕事がなかろうと、ちゃんとやる時はやっとけよと、そうすれば、いざという時に、芸人としての顔が保てると。

――深く、厳しい話です。

深いね(笑)。考えられないよね(笑)。

――芸人さんは大変だと、お話を聞いていて思います。

だから、こんだけ頑張ってるのに、不要不急だと言われちゃうと、せつないよね(笑)。恐れ入りますという感じだよ(笑)。

――もう、自由に動ける時を待つしかないですよね。

そう、待つしかない。耐えて待つ、じっと待つ。

――明治座での公演のことについてお伺いします。3月28日がどのような状態になっているかわからないですが、自由にできるような状態になっているのであれば、師匠はもうため込んだものを爆発できる機会だと思われるのですが、この企画は今回で4回目の参加で、初回に参加されてから、今回の記念すべき10回目にも登場します。意気込みを教えてください。

毎回やらせてもらっていて、何しろ寄席と違って艶やかで、華やいだ雰囲気なんですよ、裏も。楽屋自体が異文化の中にいるような、世間で見ると同じように見えるかもしれないけれど。芸者衆、踊りのおしょさんや幇間の方だったりとか、和太鼓だったりとか、全然僕らとは違う世界のものだったりしますから、自分でやるよりも、その前後に興味津々です。

――通常の寄席や落語会と違って、こうやってバラエティに富んだ出演者の方々が出る会だと、やっぱり心持ちも違ったりするものでしょうか?

そうですね。古典落語を聴きに来ているお客さんが集まっているところだと、だいたいわかるんですけど、こういう企画だとどういう趣旨で来ているのか分からないじゃないですか。踊りを観に来た人かもしれないし、和太鼓を観たい人かもしれないし。だから、何をやるかは悩むよね。例えば、「もうかる話」っていうんですけどね、要するに儲かっちゃう話というのは、誰でもがわかりやすいんですよ。後は、お酒飲むしかない。酒飲むとわかる。お金が儲かる話も分かる。ただ、そこに人情の機微なんてものが入ってくると、難しくもなっちゃう。そうかといってあまりちいちゃな噺だと中には手を抜いたなと思う人もいるだろうし、大ネタやって時間過ぎちゃう可能性もあるし、そんなことを考えながら、何をどうやるかなと思ってるのも楽しいよね。

――この緊急事態宣言の時間を経て、権太楼師匠がどう大暴れされるのか、当日のお楽しみですね。

楽しみですね。自分でも分からないから。現場へ着くまでその時にどういうように自分の感性ができているか。サグラダ・ファミリアですから(笑)。失敗するかもしれない。失敗するといいですよ。成功なんかしちゃったら面白くもなんともないじゃないですか。失敗して詰まってね、完成しないで、ズタズタになる権太楼も、面白い。まあ、そこまでにはならないけどね(笑)。


【公演概要】
『大江戸寄席と花街のおどりーその十ー』

日程:2021年3月28日(日)15:30開演(14:30開場)
会場:明治座

出演:
第一部「大江戸寄席」
落語 柳家権太楼
太神楽 鏡味味千代
和太鼓 坂本雅幸

第二部「花街のおどり」
赤坂、浅草、神楽坂、新橋、向島、芳町の芸者衆
幇間 櫻川米七

ご案内役 葛西聖司
※出演者・内容は変更になる場合がございます。

チケット<予定枚数終了。当日券の有無については公式サイトにてご案内いたします>
S席(1階・2階席):5,000円
A席(3階席):4,000円
A席学生(3階席):2,000円
※未就学児入場不可
※車いすスペースは明治座チケットセンター及び明治座切符売場にて販売いたします。
※学生券をお求めの方は学生証をご提示ください。

問い合わせ:
寄席とおどり公演事務局(明治座営業部)
TEL 03-3660-3941(10:00~18:00)
FAX 03-3660-1657
e-mail oedo@meijiza.co.jp
公式サイト:https://geisha-dance2020.jp/

主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京
助成・協力:東京都
制作:株式会社明治座
協力:朝日新聞社