【スペシャルインタビュー】 笑福亭鉄瓶「落語に、感謝しかない」


笑福亭鉄瓶インタビュー

笑福亭鉄瓶(しょうふくてい てっぺい)
本名:天野幸多郎(あまの こうたろう)
生年月日:1978年8月14日
出身地:奈良県
趣味:音楽観賞(特にロック)、ひとり酒

笑福亭鶴瓶12番目の弟子として入門。若手落語家の中でも著しい成長株。
H25年 なにわ芸術祭新人賞受賞し演目の幅が一気に広がる。
H28年 文化庁芸術祭 大衆芸能部門 新人賞受賞。
道頓堀角座においては毎月落語・司会に貢献。若手への接し方に面倒見が良く噺家・タレント問わず慕われる存在。
また音楽については邦/洋楽問わず詳しく多くのミュージシャンとの交流もある。


鉄瓶と書いて「テッペイ」と読む。
この名前は覚えておいた方がいい。

笑福亭鉄瓶の名前を目にするようになったのは、やはり昨年の文化庁芸術祭大衆芸能部門新人賞が彼の手に渡ったというニュースが流れた後だったように思う。そこから、注意深く公演情報の欄に目をやれば鉄瓶の名前はあちこちで見られるようになり、東京でもファンを着実に増やし始めている。そんな笑福亭鉄瓶は、10月25日に月島社会教育会館で第4回目となるひとり会を開催する。文化庁芸術祭を受賞して以降初となるこのひとり会を前に、じっくり話を伺った。
入門するまで落語を見たことも聞いたこともなかった、鶴瓶になりたかった芸人が、上方落語の成長株といわれるまでのストーリーは、十分に刺激的だ。そして、師匠譲りのその穏やかな語り口から溢れ出すのは、揺るぎない師匠への愛と、落語への感謝の念。
まずは、このプロフィールを掘り下げたテキストを読んで、是非、ひとり会に足を運んでほしい。

取材・文章:加藤孝朗(ハナシ・ドット・ジェーピー)


――入門されるまで落語を知らなかったというのは本当ですか?

僕は「笑福亭鉄瓶」というプロの名前をもらってから初めて落語を聞きました。うちの一門は結構そういう人間が多いんです。僕が入門した時は、師匠の鶴瓶も年に1回か2回、鶴瓶一門会で落語するぐらいで、年3回やったら弟子の僕らに自慢していたような頃です。僕の入門4年目の頃に、うちの師匠は小朝師匠に誘われて落語をやりだしました。小朝師匠に「君は落語をしなさい」と言われて火が付いて、そこからうちの師匠は落語を本格的にやるようになりました。初めて僕らが落語の現場へカバンや着物を持ってついていくようになり、そこで落語に触れたのが最初です。

――それだとすると、入門のキッカケは?

完全に「鶴瓶噺」です。最初に「パぺポTV」で見た師匠の喋りに憧れて、立ちで一人でやっているあの「鶴瓶噺」を、あの時は青山円形劇場でしかやっていなかったので、青山まで観に行きました。で、おっさんすごいな、と、なんやこの人、と。何にもなしでただ喋るだけで客がひかないというか、客が向こうから近づいて来てる。喋るだけでそんなことが起こるなんてかっこいいと思ったのがスタートです。だから僕は、入門した先がたまたま笑福亭という屋号だったということです。

――落語をやるというか、落語の名前のところに入った意識はないということですね。

なかったです。スター鶴瓶、「鶴瓶噺」をする鶴瓶に憧れて、ああなりたいと思って入ったわけです。お笑いに憧れていたというよりは鶴瓶という存在に憧れたというか、とにかく面白かったんですよね。僕ももちろん大阪で言う「いちびり」ですからね、目立ちたがり屋というか、だから、しゃべるのは好きだし、文化祭で漫才もしました。けど、養成所に行くというアタマはなかったですね。なんかわからないですけど、とにかく、あの人のあの喋り方に惹かれたんですよ。

――1978年8月14日、奈良県生まれ。どんな少年時代だったんですか?

もう、目立ちたがり屋です。完全に。典型的な「いちびり」です。

――関西のお笑い文化にどっぷりつかった少年時代だったのでしょうか?

土曜の昼は吉本新喜劇を見るのが普通ですし、まわりには漫才があるのが普通という環境で育ちました。だから、漫才も自然とやってみようと思ったし。最初は本当に内々の友達の間だけだったのが、今度は、もっと多くの人の前でやりたいと思い始めたり、と。

――目立つために始めるという感じでしたか?

運動できるヤツ、賢いヤツ、面白いヤツだったら、面白いヤツの方が何となく人気があるというか、モテたんですよ。中学、高校とかは、面白くなればなるほどモテるんじゃないかと思ってました。まあ、高校に入ると、ギター持つヤツと、そのまま変わらずいちびるヤツとに分かれるんですが、僕は一切浮気しませんでした。音楽もかじりましたが、でも、やっぱり、ワッと笑ってもうた時の心地よさというか、快感というのが忘れられないですよね。

――学生時代、鶴瓶さん以外はどのような人がお好きだったんですか?

結構いろんなものを見てました。千原兄弟さんとか、ジャリズムさんとか、で、もちろんメインにダウンタウンさんですよ、その時代は。でもそこで僕は「パぺポTV」が好きだったんですよね。ただ、学校に行くと皆、「ごっつええ感じ」とかの話をしてましたね。パぺポはちょっと世代が上だったかもしれない。とにかく、「パぺポTV」にはまりました。ラジカセで録音してウォークマンで聴いたり。もう、だいぶ痛いやつなんでしょうけど(笑)。B’zとプリプリが流行っていた当時に、僕はパぺポのトークを聴いてました(笑)。

――ワッと笑ってもらうことのカタルシスを初めて感じたのは、いつなんでしょう?

中学の時に全校生徒の前で漫才をやった時ですね。ウケたときに全校生徒の笑い声が耳にどっと来るのがすごかった。なんか、笑い声の壁が僕らにバシーンとあたるような、皆の声がドンとぶつかってくるような感じをとてもよく覚えています。

――そういうことを続けられていて、2001年に入門します。

はい。22歳ですね。高校を出てそのあとちょっとフラフラ遊んで、19歳の時に入門をしようと思ったんですよ。そうしたら、やっぱり出待ちじゃないですか。ただ、その時師匠は落語をしてませんから、出待ちをする機会を調べることができない。大阪でいくつもTVのレギュラーはありましたが収録日がわからない。一番簡単に分かったのが「笑っていいとも!」です。毎週木曜日じゃないですか。それじゃ、いいともで弟子入り志願しようと。

――東京に来たんですか?

はい。でも、まず東京に行くお金がないので、とりあえずお金貯めようと思ってバイトを1年半ぐらい続けました。貯まったところで、夜行バスに乗って東京行って、まず、家を借りようと不動産屋に行ったら、「アルバイトもしてない人には貸せないので、東京でアルバイトを決めてください」と。家借りるまで、僕は、青山の公園で寝泊まりしてたんですよ、1週間ほど(笑)。で、赤坂のアンナミラーズにいったんです。コンビニで履歴書買って、青山の公園の住所を書いて持っていったら、店長に「君、ものすごいいいところに住んでいるな」って言われて(笑)。

――すごい展開ですね。

それで、家を中野に決めて、そこから新宿まで自転車で通って、入り待ち出待ちをやりました。ただ、その時はちょうど一つ上の兄弟子の年があけた時だったんです。師匠の家に平和が戻ってきているときですよね。知らん奴が出て行って、家族だけでという時期です。奥さんが、「もう弟子をとらないで、アホばっかり、もうしんどい」と言っていた時期に僕は弟子入り志願しているんですよ。だから師匠から「取らへんねん」と言われ続けて1年半かかりました。

――1年半通い続けですか?

ええ。で、1年ぐらいたった時に、師匠に横へ連れていかれて。あ、これは来たと思ったら、「ほんまに、取らへんねん」と、こんこんと言われて。これだけ言われたらほんまに取らないんだと思いますやん。だから、翌週だけ入り待ちを休んだんですよ。で、木曜日に家でいいともを見てたら、エンディングで、「来週木曜日は鶴瓶ファン感謝デイをします。我こそは鶴瓶ファンだという人はアルタ前に来てください」って。もう、最後の思い出作りと思って行ったら、めちゃめちゃ人来てるんですよ。で、ADの人にこれこれこうこうとで、実はこれで最後なんですと言ったら、入れてくれたんですよ。

今でも覚えてますけど、参加者全員が並ぶんですけど、僕は思い出作りだから近くに寄りたくて師匠の真後ろに立ったんです。そうしたら、目の前に鶴瓶がいるその瞬間に、諦めるという気持ちがなくなってしまいました。それで、本番中にずっと耳元で、「師匠、僕、絶対あきらめませんから」って言ったんです(笑)。それを言ったことで、ホンマに痛いやつだと思われて、そっからまた半年かかりました(笑)。

――すごい話ですね。

で、半年たって、遂に師匠に「半蔵門のスターホテル知ってるか?そこに明日の昼の1時に来いって」言われて。そこのラウンジで、「取ったる」と。「取ったるけど、お前、東京、もう2年くらいおるやろ」と。「おもろいやろ。遊べるとこいっぱいあるし、大阪もええけど、東京めっちゃ面白いやろ」と。「でも、オレの弟子になったらとにかく3年間オレの家の近所に住んで、毎朝来て、これ3年続けろよ、それでもええんか」と。で、すぐに東京を引き払って、そこからスタートです。

――入門志願するためのお金を貯めるために1年半バイトをして準備もして、東京で家も借りて、とにかく入門するためだけの生活じゃないですか。入門志願しても叶わないかもしれない。それは、よく続きましたね。

いやいや、めっちゃ楽しかったですよ(笑)。アルバイトしながら、そこの子らとコンパしたり、そんなばっかりですもん(笑)。だって、することと言えば、毎週木曜日、週に一回だけですからね(笑)。あとは、めちゃめちゃ楽しいですよ。だから、僕は師匠に言いましたもん、「はい、東京、楽しいです」と。

――まず、最初に始めたお仕事は?

前説です。「きらきらアフロ」がスタートした年で、「お前、前説せぇ」と言われてやりだしたのがスタートです。意外と師匠がモニターで聞いてたり、で、帰りに車の中でダメだしされながらもいろいろと教えてもらっていました。それをやって、いろんなオーディションにもいくようになるという感じですね。

――落語に出会う前は、いわゆる立って喋る仕事をやられていたということですよね。

お笑いタレントを目指しているというノリです。

――もちろんその頃はもう鉄瓶という名前はついてるわけじゃないですか。でも、気持ちとしてはお笑いタレントということですよね。その時は、落語に対する思いというか、イメージはどのようなものを持っていたんですか?

何にもないです。真っ白でした。だから、師匠が「お前は笑福亭鉄瓶だ」というので、そう名乗っていただけで、落語家という意識なんて全くありませんし。

――でも、近くに落語がある環境であることは間違いないですよね。そこで落語を見聞きし始めたんですか?

そうです。修業中には、兄弟子がやっている落語会などは「手伝いに行きなさい」と言われて行ってました。そんな中で落語をちょっとずつ同じ喋る仕事として見ていると、なんかいろんなことを思うようになるんですよね。「あっ、すげえな」ということがいっぱい出てくるんですよ、本当に初落語ですから。

――印象はよかった?

めちゃめちゃよかったです。たまたま、ええ人がやるええネタに出会えたのかもわかりませんが。その時に、なるほど、すごいなと思いました。

――落語っていうものの持つ力に、その時から惹かれ始めていた?

そうですね。ネタというものをどう操るかという勝負をしてはるんだろうなと思ったんですよね、落語家というのは。で、僕も操ってみたいと。で、そう思ってまた聞いてみると、オレだったら、その操り方はしないとか、この人の操り方面白いわ、とか色々なことが見えて来たんです。

――そういう思いが自然と湧き出てきたんですね。

はい。湧き出て、あふれた結果、師匠に電話して言ったんです。「修業中にせえへんと言いましたけど、落語をしてもいいでしょうか?」と。入門して4年目です。そうしたら、「やったら、ええがな。笑福亭やねんから、好きにしてください」って敬語で言われました(笑)。

――(笑)

で、最初は桂梅団治さんのところに行って、「稽古をつけてください。ただ、落語は全く知りません。なぜ、右を向いたり、左を向いたりするのかも知らないです」と。「いや、それは上下(かみしも)や」と(笑)。で、「平林」を教えてもらったんですよ。「君はお笑い文化で育ってるやろ、新喜劇で下手から入ってきて上手に言うやろ、それや」と。ものすごく、細かく教えてもらいました(笑)。

――師匠である鶴瓶さんは、稽古をつけなければ、誰に教わった方がいいというアドバイスをしてくれるわけでもないんですか?

ないです、ないです。でも、絶対に揺るぎないスピリッツだけは教えてもうてるので。でも、うちの兄弟子は皆、稽古はつけてもうてるんですよ。師匠から。1本か2本はつけてもうてるんです。

――それは一門の方針として稽古はつけないということではなく。

ちがいます。僕の弟弟子もつけてもろうてます。つけてもうてないのは、笑瓶兄さんと僕だけですもん。笑瓶兄さんは分かりますもん、早くに売れたから。だから、教えて下さいって話でしょ。でも、すかされすかされで(笑)。

――それは想像しうるになぜ何でしょうか。

いや、僕が聞きたいくらいです(笑)。

――入門される前から、「鶴瓶噺」をしたかったわけじゃないですか。要は、鶴瓶さんになりたいということですよね。鶴瓶さんになって、「鶴瓶噺」をするんだっていうことがモチベーションとなって、すべての生活があって、入門されて、で、落語に出会います。その落語というのは、いわゆる「鶴瓶落語」をしたいということだったんでしょうか?それとも、「落語」をしたいということだったんですか?

いや、「落語」をしたいと思ったんです。

――それは、そこで、初めて、鶴瓶さんから離れたということになりますよね。

ああ、そういうことになりますね。落語に関しては全く別ですね。

――目標設定が初めて非常に自主的なものになりました。それは、変な言い方をすると自我の目覚めみたいなところもあるんじゃないかなという気がするんですよ。

そういわれると、ほんまですね。僕が今、再確認している感じですけど(笑)。でも、落語に関しては、そこは鶴瓶じゃないですね。間違いなく「落語」というものに惹かれて、それは桂であろうが月亭だろうが林家であろうが関係なく、「落語」というものそのものに惹かれたというか、落語ってすげぇなって。これをちゃんと操れるようになったらみんなびっくりしよるやろうなと。でも、最初スタートした時は、「わぁ、やらんかったらよかった」と何度も思いましたよ。だって、そんな簡単なものじゃないですしね。今でもそうですし。

――なるほど。

ひょっとしたら、僕の心のどこかに、これを覚えてやればそれなりの結果が出るんだと勝手に思い込んでいたかもしれません。でも、お客さんは嘘つかないし稽古も嘘つかないので、すぐにこれは難しいなと思い始めました。ネタも増えないし。そんなときに同期が「同期会をしませんか」と声をかけてくれたんですよ。この人たちは、落語が好きで、落語家になりたくて、落語家になったヤツらですから、その段階で30本以上ネタを持っているんですよ。僕は3本です(笑)。これで、太刀打ちせなあかんと。大阪では、鶴瓶一門は基本的に落語をしないのが当たり前だという感覚があるので、彼らも一応声をかけたという感じだったんでしょう。まさか、「うん」と言うと思わなかったんじゃないですか。でも、僕はうんやりましょうと。そこからはもう、同期のこいつらしか見てないです。とにかく漕ぎまくろう、ネタを覚え倒して、稽古行き倒して。気づいたらネタも50本ぐらいになってて、ホンマに彼らのおかげです。

――同期の背中を追い続けたと。

そう。その同期の桂佐ん吉とは今でもふたり会を続けています。東京でも続けていて、もう5年になりますかね。

――今、ご自身の意識としては、お笑いタレントなんでしょうか、落語家なんでしょうか?

今、僕は、落語家と言っています。落語家の笑福亭鉄瓶です、と。入門11年目ぐらいの時に、ある三味線のお師匠はんに言われたんです。「落語家として入ってないからって、他の落語家の人らに気を遣うのはもうやめたら。私はあなたを見ていて遜色ないと思うよ」と。それがキッカケです。

――それまでは、引け目があったんですか?

それは、なんとなく、後ろめたさというか、ひょっとしたら「もともと落語はやらんと言って入ってきたのに、何やってんねん」と思われてんちゃうかとかね。

――今は、落語というものがベースにあって、いわゆる立ちトークのような仕事が他にあるといった感覚ですか。

そうです。いままでとは完全に真逆です。それで家庭も持たせてもらって、子供もできてで、落語家としてやらせてもうてるわけですよ。もうね、落語に感謝しかないですよ。落語を好きですけど、好きという言葉では軽すぎるなってくらいの感謝をしています。だから、自分の落語のこういうところを見てくれとか、そんなおこがましいことは言えません。落語に感謝して楽しんでいるところを見に来てほしいです。

――落語という存在に、その力に完全に敬服しているということなんでしょうね。

はい。ざこば師匠がええことを言いはったんですが、「お前ら落語に全然感謝してない。時うどんやったら、時うどんという枝に一体何百人の落語家がぶら下がってると思ってるのか。そんなことしていたら、その枝はすぐに折れるぞ。皆がもっと大切にしないと」、と。ホンマにその通りだと思いました。もう、感謝しかないですよね。いま僕が現時点で持っているネタに感謝しかないです。

――今落語をされることのモチベーションというのは、落語に対する恩返しみたいなものがあるんですか?自己実現のために落語をやられているという印象があまり伝わってきません。

落語をすることのモチベーションは、師匠鶴瓶への恩返しと、落語への感謝ですね。その上で、僕はお笑いタレントとしてではなく、落語家として大成したいという夢があります。

――結果は出始めています。昨年、文化庁芸術祭新人賞をお取りになりました。これをお取りになったときはいかがでしたか?

まず、賞をいただいて、先ほど言った後ろめたさはちょっとずつ薄れてきてるけれど、まだもやもや感がある、そのもやもやを消してくれましたね。うちの師匠も「お前、自信出てきたやろ、それでええ」と言ってくれました。あと、東京びびりというか、東京に来て必要以上に構えてしまうという感じが減りましたね。自信をもらえました。

――そんなタイミングの中で、10月25日に月島社会教育会館で、ひとり会の東京公演があります。

大阪の独演会でも一緒ですが、とにかく「笑福亭鉄瓶は今こういう状態ですよ」というのを見せるのが独演会だと思っているので、きっちり今の状態を見せていきたいと思っています。僕は、東京で落語をやりだしてまだ2~3年なんですけど、最初からあまりアウェー感はないんですよ。この独演会ももう3回やっているんですが、楽しくやれています。

――実際、上方落語に対する東京の人の見方として、構えちゃうということは確実にあると思います。落語を聞くということが習慣化されている人でも、落語を聞くということと上方落語を聞くということは別の行為であると。何か一つ努力をしないと上方落語を聞かないという人が非常に多い気がします。

そうなんですよ。

――その中で、独演会とかをされる方は増えてきていますが、鉄瓶さんは東京で、どう見てほしい、どういうふうにとらえてほしいと思っていますか?

まず、こういう言葉はあまり使いたくないけど、やっぱり、こっちが中央ですよね。で、今メディアが取り上げるのも東京の噺家が多いですよね。でもね、いやいや、大阪にもぎょうさん頑張っている人が、おもろい人がいっぱいおると。でも、カテゴリーとして僕らは「落語」じゃないんですよね。「上方落語」なんです。「落語」と「上方落語」という分け方から、その「上方」をとろうよ、と。取るためには、どんどん出て行って、やらないと変わらないし、僕がそれを代表して変えようなんておこがましいことは思ってませんが、でも僕は変えたい一人なんです。じゃあ、そのためには大阪でぐじぐじ言っているんだったら、もうこっち来てやった方が早いじゃないですか。で、見てもらって、例えば100人見ていた中の30人が「上方落語はおもしろい」と言ってくれたら、ゼロだったのが30に増えるわけですよね。その数を増やしていくことが大切だと。

――なるほど。

あとはいい意味で戦って、東京からも「切磋琢磨しようよ」と言ってもらえる状況にまずは立たないとあかんかな、と。下手すると僕はまだスタートラインに立ってないんじゃないかなという気持ちですけどね。でも、まずは、とにかく見てもらわないとあかんなという気持ちが強いです。別に勝ち負けではないですが、やっぱり、同じぐらいの割合で見てもらいたいという気持ちですね。

――ひとり会があって、それ以外の活動も東京で割と高い頻度でやられています。東京に家も借りられました。東京での活動を本格化されるということでしょうか?

はい。割合も、半々もしくは東京の方が多いぐらいでもいいという気持ちでいます。

――賞をとられたのが昨年、今年から活動をより本格化されて、まさにこれから行くぞというタイミングでのひとり会です。ずばり見所は。

一番最初に憧れたものも忘れずにということで、アタマは私服で立ちで30分ぐらい喋ります。で、落語を2席という流れです。これは大阪での独演会も同じ流れです。それは他の噺家さんと違うところというか、笑福亭鉄瓶という噺家は立ちでこんなことも喋れますと、まくらも喋れますよと、落語もこうですよと。笑福亭鉄瓶のショーケースといったら大袈裟ですけど、「笑福亭鉄瓶はいかがでしょう」と思ってもらえればと。

――今日お話しいただいたすべての側面が見られると。

あと、独演会では、その年によくやったネタや、練り上げられたネタをやります。全部ネタ下しみたいなことをされる人もいますけれど、独演会は年一回しかやっていないので、今まで来てもらったお客さんに対するベストアルバムのような感じにできればいいかなと思っています。

――これを見れば全部がわかると。オール・アバウト・鉄瓶さんという感じですね。

そうです、そうです。全部わかってもらいたいんですよ。


【公演情報】
笑福亭鉄瓶ひとり会 東京公演

公演日:2017年10月25日(水)
開演時間:19時
会場:月島社会教育会館
出演:笑福亭鉄瓶「鉄瓶トーク」「替り目」「茶漬幽霊」
料金:前売2500円/当日3000円 学生割引:前売1500円/当日2000円
チケット:チケットぴあ Pコード480-478
問合せ:松竹芸能 06-7898-9010