【スペシャルインタビュー】立川吉笑「立川流であるということが唯一のアイデンティティ。」


・お笑いのユニットを組んで東京に来たんですが、ボコボコにされました。こんなにレベルが違うのかと。周りは天才だわって。傷心ですよね。

――なるほど、私の中ではなにか吉笑さんのバックグラウンドが浮かび上がってきました。こんな話を延々と落語情報サイトでしていてはまずいので、本題に入ります(笑)。落語を初めて聴いたのは随分と遅いんですよね。

24歳ですね。志の輔師匠を聴きました。

――そのときは大学を辞めて、構成作家の仕事をしていた時期?

そうです。まず自分のキャリアを一回全部話しましょう。恥ずかしい部分でもあるし、夢が敗れた瞬間でもあったんで、今まではわりと公に話していなかったんですが。

最初はお笑い芸人になりたかった。高校の時ですね。中学3年生までめっちゃ勉強していて、で、良い高校入って、その辺りからちょっとモテ願望が入ってきて、手法としては笑わすことを考えたんです。お笑いが好きだったから。高校入ってラジオ聞いてバラエティ見て、3年間みっちり笑いを追求しました。で、高3のときにNSCに行こうと。そのときは自分のセンスとしては無茶苦茶しょぼかったとは思いますよ。でも、とりあえずお笑い芸人になろう、それならNSCに行こう、と思ったけど、親から「受験が嫌でそんなこと言ってるんだろ」って言われたり。まぁ進学校だったから。

じゃあ、まあいいや受験はしようって、大学には1年だけ行った。京都で大学行きながらインディーズのお笑い団体みたいなのに参加して、お笑いごっこみたいなのをやって。こっちは本気でやりたかったけど、インディーズだから皆ぬるくて。

大学は予定通りを1年で辞めました。その1年間で笑いの知り合いとかもできていたし、紹介してもらった人とコンビ組んで20歳くらいまでの2年間くらいはbaseよしもとのオーディションを受けてました。最終的にはちょっといい感じまで行けたんですよ。300組受けて最終の5組には入れるような手ごたえも感じ始めて。そのとき相方が失踪したんです。

――急に失踪?

そう。彼は服飾の専門学校に行っていて、たぶん遊びでやってたんでしょうね、お笑いを。そうしたら意外と300分の5とかに選ばれたりして、ちょっと注目されてビビっていなくなった。

――吉笑さんも本気だしってこともあるし。

そうそう。そこで「なんだこれは」ってがっかりした。それが20歳の時。まだ笑いをやりたいという思いは当然強くて、でも改めてコンビを組んだりしてbaseよしもとのオーディションを受け続けようとは思いませんでした。オーディションに行くと基本的に周りは先輩ばっかりでしかも10年以上やっている方々が沢山いるんですよ。

お笑いは、特に漫才はツッコミの技術でだいぶ差がつくんですが、ツッコミの経験値やレベルが明らかに違いすぎて。しかも毎月やって受かるのも1~2組みたいなところで、その彼らと対等にやりあっていかないといけないし、受かった後もずっと入替えバトルで上位ランクと戦っていかなくちゃいけない。「これは正直キツいな」と思ったし、自分の才能に限界も感じて。

そんな時にヨーロッパ企画をたまたま知って、彼らの演劇を見に行って、すごく面白いなと思った。彼らはバッファロー吾郎さんとか倉本美津留さんと一緒にイベントをやっていて、演劇や劇団という手法だったらこんな一線の人と飛び級でマッチアップできるんだと思って驚きました。

ちょうどラーメンズが従来のお笑い芸人じゃない売れ方で出てきていた時でもあって。そんな出来事を前に、「これだ!」と思って始めたのがイクイプメン。知り合いの放送作家と組んだユニットなんですが、その人はめちゃくちゃ才能があって、クリエーターとして抜群のセンスがあった。それで4年間活動しました。ネタもやるけど、映像も作るし、webの企画もやったりとか、様々な表現方法を駆使して笑いを表現する。そんな活動でした。

――笑いを中心としたクリエイティブ集団?

そうですね。簡単にいえばラーメンズの二番煎じ。本公演をやって動員を増やして、具体的には「一公演で一万人呼べるようになったら食えるな」みたいな計算を、ヨーロッパ企画さんを見ながら追いかけようと思って。そんなことをやっている最中に倉本さんにたまたま映像作品を見てもらう機会があって、東京に呼んでもらったんですよ。

――倉本美津留さんに?

そう。当時倉本さんは、作家をやりながら自分の学校みたいなのもやって制作ディレクターとかを育てていていたんです。作家の仕事は自分がいるからできる。スタッフも揃ってきている。あとは出演者がいたら自分たちのチームで完パケできるって思っていたみたいなんです。倉本さん的にも新しい何かを始めたいと思われていたタイミングだったようで、僕らを見つけくれて、引っ張ってくれたんです。

――演者としてですか?

そうです。うちのユニットは基本としては、僕はわりと演者側の立ち位置で、相方が作家側の立ち位置にいたんですが、ないまぜだったんですね。もちろん僕も作家の仕事もしたし、お互いが出たりもしていて。相方は年上だったので生活もあるから、倉本さんの下でがっつり作家で仕事をやらせてもらってもいたし。逆に僕はピンで倉本さんにねじ込んでもらったお笑いライブにでたりとか、会場を借りて自分たちの定期公演もやっていました。倉本さんにねじ込んでもらったバーターでテレビもいくつか出させてもらったりとかしていました。それこそクイックジャパンにも何回か掲載してもらったりとかもあって。割とうまくいってました。

ただ相方はもともとは作家思考が強く、逆に自分は売れたい、目立ちたい願望が強くて、そこにだんだんズレが生じてきた。こっちはもっと出ていきたいけれど、相方は渋る。相方が仕事を選び出して歯車がずれ始めたのが23歳位の時です。

そのときに、日清具多ってカップラーメンのウェブCMの仕事を倉本さんにねじ込んでもらって、バカリズムさん、ナイツさん、そしてイクイプメンの3組が同じ並びで出演するという企画があったんですよ。初回の収録に行ったらバカリズムさんとナイツさんのことはクライアントの日清の人も当然よくご存知で、でも僕らのことは「誰?」みたいな感じ。とは言え作家の倉本さんが推薦した演者だから何も言わないでいるって雰囲気。

で、収録しました。そこでいいパフォーマンスができたら黙らせられたんでしょうけど、それ相応のことしかできなかった。こっちも萎縮するし。で、2回目の収録に行ったら明らかに自分たちだけ出番が減っていて。倉本さんでも守りきれないくらいクライアントから色々言われているのも分かっていて。

――内容はコントですか?

コントです。3組の合同コントみたいなこと。その後にクイックジャパンの企画などで一緒に大喜利とかもすることになって、そのときにボコボコにされました。こんなにレベルが違うのかと。これでは勝てないと。レベルが違い過ぎるわって。天才だわ、あっちはって。傷心ですよね。そこでどうしようかなと悩んでいた時に、本当にたまたま志の輔師匠の落語を聴く機会があって。これですよと。落語という優れたフォーマットに、自分の持ってる少しの才能を足したら、なんとか面白いものを産み出せるかもしれないって思ったんですよ。落語家って看板があれば、あのときクライアントに対しても落語家の誰々ですって名乗れれば、あの「誰、お前?」って感じがなくせたんじゃないかっていうのが一つの理由でもあります。


――そのときの現場で感じた「違和感」だったり「傷心」って、「何者でもないっていう困惑」ってことですよね

そう、そう、そう。そういう風に自分たちを仕向けて今までになかったユニットをわざわざ作っておいて、お笑い芸人とは言いたくないし、お笑いユニットでもないし、いい肩書きがなくて、現場行ったら説明に困る。しかも倉本さんのコネで本来の実力とかキャリア以上のポジションを担わせてもらっていたねじれもあって。

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