【スペシャルインタビュー】橘家文左衛門


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橘家文左衛門(たちばなや ぶんざえもん)

1962年 3月25日生
東京都江戸川区出身
本名は込山豊男(こみやま とよお)

1986年10月 橘家文蔵に入門
1986年3月 前座となる 前座名「かな文」
1990年9月 二ツ目昇進 「文吾」と改名
2001年9月 真打昇進 「文左衛門」に改名



昨年、私はビクター落語会シリーズと銘打ったDVDを監修し、全28タイトルをパッケージを新たに再発売した。この為に、既に世に出たものから、諸々の事情でお蔵入りになっていたものまで、それは多くの噺家の多くの高座の映像を見た。その中でももっとも印象深いものは、橘家文左衛門師だった。演目は「らくだ」であり、「試し酒」であり、「青菜」であり、「天災」であり、「道潅」であったりと様々なものを高座にかけていたが、そのどれも登場人物の心理描写がとても繊細で、男の情けなさや可笑しさを実に温かく描いていた。
文左衛門師と言えば男らしい声と風貌で荒くれ者の類のパブリックイメージがあるが、それは本当に一面的なことでしかなく、誤解を恐れずに言えば、実は全く逆の心を持っている噺家ではないかと思っている。
その仮説を実証するために、落語とは切り離せない音楽のことなどを交えながら、師の本質に迫ってみようと試みたのがこのインタビューだ(単に、「たっぷり音楽の話をしてみましょうか」という企画意図もなかったわけではない)。
テンポよく進む会話は軽口を叩くようでいて、その実は非常に赤裸々な思いを語ってくれている。そこには落語や師匠である故文蔵への愛にはじまり、噺家仲間や音楽仲間、友人たちへの感謝に溢れた言葉が並ぶ。

やはり、そうかと思った。橘家文左衛門師は、とても喜びに溢れているから、いつ観てもいきいきとして、何かを仕掛ける悪戯坊主のような笑顔をしているのだ。それは高座のみならず、「三K辰文舎」と「The黒KARA」という2つのバンドで歌う姿も羨ましいくらいに輝いていて、私は見るたびに思わず心が動いてしまう。

6月28日(土)には私が企画するビクター二八落語会の昼席で独演会を行う。
7月16日(水) には噺家バンド「三K辰文舎」の「落語&ライブ」の会が文京シビックホールで開催される。そして、師の名を冠した月例会、文左衛門の月例「文蔵コレクション」が7月19日(土)にらくごカフェで開催される。
この様々な顔を持つ噺家の魅力は、是非、生で味わってほしい。
そんな気持ちを強くいだく取材となった。

 

取材・文章・写真:加藤孝朗
デザイン:鎌形眞美
協力:村田綾子

扇辰さんはそれこそオフコースだとかチューリップとかが好きで、小せんさんは中島みゆきとさだまさし。墓参りの歌とか、そういったようなのが好きで(笑)。俺が歌いたがらないようなやつね(笑)。

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–落語の原体験は?
落語は、ラジオで頻繁にかかってたじゃないですか。で、「落語っておもしれぇなぁってな」って思い始めて。そのうち、親父が寄席に連れてってくれるようになって。小学校のときから寄席は通ってましたね。

–小学校のときから?
最初は親父に連れてってもらって、帰りになんか食わしてくれたり、買ってくれたりするからそれが目当てだったんですよ。小学校2、3年生くらいのときからかな。5、6年生になるともう1人で行ってましたね。

–奇妙な目で見られたりとかしませんでしたか?
いや、あんまり前に出ないで後ろの方で見てましたからね。前にいると三平師匠とかにいじられるじゃないですか(笑)。あれが嫌で。いじられたことがあるんですよ、一度。「おいおい、だめだめこんなところ来ちゃ」ってね。「うっせぇな」って思ったり(笑)。

–それが嬉しい人もいます。
ナイーブな方だったんでしょうね。「おいおい一人できたの?だめだよ」とか言われるから、「うるせえな、早く先に進めろよ」とか思ったりね(笑)。

–落語の目覚めはすごく早いですね。
まあ、それなりに難しい言葉とか、触れたことのないような言葉とかも、なんとなくニュアンスでわかるじゃないですか。今日こんな噺聞いたよ、とかって親父に話したりして。「間男って何?」とか(笑)。すると親父が「間男ってのはなぁ。例えば俺が留守のときに、お母さんが若い男を呼んでいいことをしようっていうそういうやつだ」「ああ、そうそう、そんな噺だった」とかね(一同爆笑)。

–良くも悪くもいろんな知識を寄席から得られたと。
最初は、それこそ紙切りとか太神楽とか奇術とかそういうものが楽しかったからね。アダチ龍光先生なんかもう、びっくりしたね。

–まずは落語よりもそういうものの方がキャッチーですもんね。
そうですね。紙切りも今の正楽師匠が一楽って名前で、まだペーペーだった頃ですよ。

-紙切りも衝撃的な芸ではありますよね。
亡くなった正楽師匠の紙切りを初めて見た時は、驚きましたね。テレビでやってたのを見て、これ、絶対うそだよと思った。でも実際に見たら、マジでやってる。あ、そうそう。俺が噺家になってから、自分の会に今の正楽師匠をゲストで呼んだんだけど、うちのお袋が後ろの方からお題の声をかけちゃって(笑)。「切ってもらっちゃった」とか言って喜んでるのよ。「やめろよぉ、他にお客がいるんだからよ」って(笑)。

–話がかわりますが、そうやって落語と触れていきながら、音楽の目覚めはいつごろですか?
俺が中学くらいのときから、ほら、フォークソングとか流行ったじゃないですか。うちには、楽器があったんで。

–お父さんがやられていたのでしょうか?
ええ。姉もギター弾いていたし。なんだか知らないけどエレクトーンもあった。「ギター欲しいんだけど」、「じゃ、買ってやるよ」って感じで、当時のモーリスギターの安い、ちっちゃいやつを買ってもらった。5、6千円くらいのやつ。フォークがちょっと下火になってきた頃かな。だんだん、ニューミュージックとかいう、わけわからない音楽が出てきた頃。

–ちょうど変わろうとする頃ですね。
そう。姉の影響で子どもの頃から、それこそガロだとか、五つの赤い風船だとか、加藤和彦も聞きましたし。耳には入ってましたからね。

–ちょうど70年代前半から半ばくらい?
そうですね。昭和40年代。で、中学生ではじめてコードを押さえて、ああなるほどなって。別に趣味程度でしたね。

–どういう人をコピーしてましたか?
最初は拓郎とか陽水とか。加藤和彦は難しいんですよ、コードが。押さえられないのよ。

–コードも複雑で、フィンガリングも難しいですよね。
チューニングなんかも変則じゃないですか。俺には無理だから、聴くだけにしようと。

–あの時代にしてはちょっと珍しいテンションコードとか使ってますからね。
はいはい。そうですね。あと、ブレイクする前のRCとか古井戸とかのエレックの連中は聞いてましたね。コードが簡単なの、スリーコードですむし(笑)。

–バンドになる前のRCとか、いい時代ですよね。
そうだ、小学校の5、6年生のときかな。箒もって「大学のノートの裏表紙~」(仲井戸麗市がRC加入前にやっていたフォークデュオ、古井戸の「さなえちゃん」)って教室で歌ってたの覚えてるだけど(笑)。
流行ってたからね、「さなえちゃん」は(笑)。なんか、ちょっと、バカでしたね(一同爆笑)。

–陽水、拓郎があって、古井戸やRCを聞いていて、その後時代が進んでニューミュージックになる。その後の音楽の趣味はどのように変遷するんですか?
その後ねぇ。ユーミンだとか、オフコースだとかが大嫌いで(笑)。もう、聞いてられないんですよ。その頃にパンクとかが出てきたじゃないですか。九州のめんたいロックの連中とか。それで、「なんか、こっちのほうがおもしれぇや」ってなって。

–まさにニューミュージックの真裏ですよね。
80年からですね。で、好きだった泉谷しげるもちょっとそういう方向に走っちゃうような。だからロッカーズとかモッズとか、あの辺を聞いてましたね。ルースターズも。あと、ロケッツ、その時はサンハウスですかね。で、同時ぐらいにRCがガラっとロックバンドに変わって、やっぱり気持ちがいいなって。でも、それと同時に、どんどん加藤和彦が好きになってくんですよ。

–もう、サディスティックミカバンドは解散してますよね?
解散してました。はっぴいえんどよりはミカバンドの方が好きでしたね。その後、どんどん良くなってきて、「それから先のことは」(76年発表のアルバム)とか「シンガプーラ」(76年発表のシングル)とか「ヨーロッパ3部作」って言われる作品(アルバム「パパ・ヘミングウェイ」「うたかたのオペラ」「ベル・エキセントリック」の3枚)とか、もう、ガーって聞きましたね。「パパ・ヘミングウェイ」なんかもすり減るほど聞きましたね。それと真逆な「ギャァー」っていうやつも好きなんですけどね(笑)。

–それまでの文左衛門師匠の趣味からすると、ストレートなロックとやや知的な加藤和彦を両方平行して聞くというのは意外ですね。
そうですね。だから、三K辰文舎(入船亭扇辰師、柳家小せん師と3人で活動しているフォークバンド)では加藤和彦も泉谷しげるも歌うし、でもバンドのTHE黒KARA(より本格的な音楽仲間と結成したパンクロックバンド)の方では、ウァーってガナるようなやつを歌ってます(笑)。

–三K辰文舎とTHE黒KARAを平行してやっているとうことに、びっくりしたんですよ。音楽性も含めて、いったいどちらが本当の文左衛門さんなのでしょうか?
両方とも俺なんでしょうけど、三K辰文舎の方は、まあ、俺が入ると曲が限られちゃうんですよね。無理言ってますけど、扇辰師匠や小せん師匠に(笑)。

–扇辰師と小せん師は趣味が近い?
3人とも違いますね。扇辰さんはそれこそオフコースだとかチューリップとかが好きで、小せんさんは中島みゆきとさだまさし。墓参りの歌とか、そういったようなのが好きで(笑)。俺が歌いたがらないようなやつね(笑)。だから、バランス取れてんじゃないですか。

–どちらかだけだと、消化不良だったり欲求不満になりますね。
ええ、そりゃ、三K辰文舎だけだったらもう。

–そうですよね。
だって自由にやらせてくれないもん(一同爆笑)。

–いつだったか三K辰文舎のライブが近づいた頃の高座で、これから扇辰師匠の自宅スタジオへリハに行くんですよって、愚痴を言われていたのを拝見したことがあります。
そうですよ、大変なんですよ。小せんさんって絶対音感もってるんですよ。俺が歌うとすぐにコーラスできちゃうんですよ。辰ちゃんもコーラスとかはきっちり進行していかないと気がすまないたちでさ。俺はどっちかっていうとそういんじゃなくて、かなりフラットしたりジャンプしたりで。厳しいですね。ほんとに。だから、なるべく、扇辰、小せんの機嫌を損ねないように、あの、うん・・・気遣ってます(笑)。

–三K辰文舎では、文左衛門師匠の歌い方はそんなにがなっていない。なんか、抑えた発声というか、力を抜いた発声ですよね。
どなってないですよね。がなってない。

–それに合わせてなのか、ギターのストロークもびっくりするくらいソフトタッチですよね。
そうそうそう(笑)。それは、あんまり音出しちゃいけないだろうなっていう、歌ってるときに、考えるわけですよ。ほら、機嫌損ねちゃいけないから(笑)。バランスとらないとけないなっていう働きが。気を使っているんですよ(笑)。

ストレスがたまらない程度に仕事して、たまったら歌うたって発散する。それでバランス取ってる。ただ、満足はしてないんだな。まだまだ力不足だから。

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–三K辰文舎を結成した経緯は?
高円寺のノラやさんってあるじゃないですか。そこで終わると辰ちゃんがね、必ずギター持って歌い始めるんですよ。それにたまたま俺も顔出して歌い始めてたら、小せんさんがやってきてなんかギター持ってきちゃって、それで3人で歌い始めたのが最初。で、ノラやの何周年記念かで、すし屋のお座敷でやったパーティがあって、そこの余興で演奏したのがデビューです。

–そのときは三K辰文舎って名前は?
まだないです。ちっちゃいとこでやってたんすよ。そうしたら、サンケイリビングが食いついてきて、シビックでやるようになったんだよね。本当に20人でいっぱいになっちゃうようなところでやってたんすよ。だから最初頃は集客大変だったみたいだね。

–いきなり20人のコヤから200人以上入る文京シビックホールとはすごいですね?
東京ドームに近づいたんです(笑)。

–物理的に(一同爆笑)。ということは目指してる?
目指してないです(笑)。「ドームは音響悪いから」とか辰ちゃん言いそう(一同爆笑)。

–それは本気の発言かもしれないですね。
「ドームとか武道館は音響悪いからだめ」って言ってたわ(笑)。

–3人は絶妙なバランスですね。
そうですね。「静」と「動」と「暗いやつ」って3人で(笑)。

–それは、もうまさに、言い得て妙。
小せんさんはね、とにかく、陽気に歌っちゃダメだよ。合わない。「都会では自殺する若者が増えている」(井上陽水の「傘がない」)とかすごいうまいの、あいつ。切実さと信憑性があるから。あと墓参りの歌とかね(笑)。

–三K辰文舎のライブは年に2回ですよね。シビックで2回のスタイルになってどれくらい経ちますか?
4年か5年くらいかな。後、ノラやの忘年会でしょ。ちょうどいいんじゃないですか。

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–で、先日は九州にライブを。お声がかかったときはびっくりした?
もう半年くらい前から話はきていたんですよ。熊本落語会っていう、結構、由緒ある落語会ですよ。世話人の方は、うちの師匠を若い頃から知っているという(笑)。

–そんな方が世話人の会で、三K辰文舎が呼ばれたんですか?
その熊本落語会の今までの資料がいろいろと送られてきたら、そこには圓生とか、正蔵とか書いてあって。おい、いいのかこれ。いいのかなぁ、いいんだなぁ、みたいな感じで(笑)。

–その歴史に名前を連ねる(笑)。どうでした?当日?
いやぁ、驚くほど反応が良いんですよ。びっくりしましたね。まず落語を一席ずつやるんですが、それがもう何よりも反応がよくって。俺、前日のThe 黒KARAのライブで喉を傷めてしまって、喉ががらがらだったんですよ。だから、なるべく喋らない噺にしようと思って「試し酒」やったんですよ。酒を飲むだけだからと思ってさ(一同爆笑)。そしたらもう、すごいの、反応が。驚きましたね。

–肝心のライブは?
歌なんかもう、最初、扇辰がユーミンかなんか歌ったのかな。イントロの時点で「ウワァァー」って。歌い始めたら「ウォォォー」みたいな感じでさ。何でこんないい客なのかなって(笑)。何、この辺、娯楽少ないの?みたいな(一同爆笑)。

–じゃあ、明らかにシビックでの反応より良かったですか。
そうですね。シビックはねぇ、時間の制約が厳しいんですよ。だから落語は前座なしで、3本で20分ずつとか慌ただしくなっちゃう。熊本では本当にゆとりがあったんで、落語も皆のびのびとやってましたね。たっぷりと。その落語会のお座興で歌ったみたいな感じでね。1曲終わるごとにMCしたりして。だからお客さんも喜んでくれて。

–これからも、声がかかれば?
ええ、もう、どこへでも行きますよ(笑)。今度は、三K辰文舎が終わったあとTHE 黒KARAのライブの順番にした方がいいですね。

–確かにそうですね。喉のことを考えたら(笑)。師匠にこんなバンドの事ばっかり聞いて申し訳ないんですが(笑)。
いいじゃないですか。落語の話なんかは三三とかに任しておけばいいのよ(笑)。

–噺家の皆さんは、幅広く、いろんな趣味をもたれてる方多い気がします。
俺は、趣味ってないんですよ。そんなに。趣味の延長ですかね。音楽は。

–落語をやって、音楽をやって、という生活である種、満足されてる?
いや、不満ですね。まだまだ満足してません。まだまだ力不足。

–芸の研鑽ということに対して?
そう。

–現状満足はしていなくとも邁進していける環境にはあると?
ありますね。

–噺家だけで音楽がなかったらそれは結構煮詰まる?
そうですね。まぁ、いいバランスはとれてるんじゃないですかね。まだまぁ、やりたいことたくさんあるし不満ですけど。そういう意味では心地いいですね。今の生活は。

–黒KARA結成は?
結成して3年かな?いろんなバンドでベースを弾いていた友達が、幼馴染のドラムを連れて来て、ギターはライブハウスですごい奴を見つけてきて、それで、板橋のなんとかっていう、ちっちゃいライブハウスでライブをやったのが最初かな。お客は友達ばっかりだったけど。

–ジャンルの構想は?
パンクっていうより、ハードロック、ハードなもの。

–最初から定期的に活動していくバンドとしてやろうという感じだったんですか?
そうですね。半年に1回ぐらいライブが出来たらいいね、なんて言ってたのが頻繁になってきちゃった。南青山のレッドシューズでも結構やらせてもらったし。やっているうちにどんどん面白くなってきちゃった。で、オリジナル作って。去年は4回くらいライブをやったかな。

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–それは今後も増えていく?
今で、いいバランスじゃないですかね。俺も本業の方が忙しくなってきちゃっているんで。

–そんな嫌な顔されなくても(笑)。
はははは(笑)。うん、でも、ストレスがたまらない程度に仕事して、たまったら歌うたって、発散するっていう。それでバランス取ってる。

–文左衛門師匠は大喜利もやってますものね。そうそうたるメンバーで。
池袋演芸場でやるから人がたくさん入ってもたかが知れているので、皆でわけたらチャランですよ(笑)。持ち出しですよ。銭にならないんです(笑)。息抜きなんでしょうかね。ストレスのたまる息抜き(笑)。ねぇ、なんか苦行のような。修行僧のような。そうそう、大喜利では菊之丞とか面白いんですよ。去年は優勝しちゃったり。

–菊之丞師匠は、結構真面目な感じに見えて、相当面白い方ですよね。
面白いですよ、菊之丞さんは。酒癖はかなり悪いですけど(笑)。宴会だとか打上げでの、座持ちがすごいんですよ、あの人。面白いのよ、とにかく話すことが。皆で聴き入っちゃうくらいに。

–本業の落語があって、バンドが2つあって、大喜利があって、
それでもう、一年過ごせますよ。去年なんてあっという間に終わっちゃった。

–そのスケジュールを決めてしまったら大変だけど、楽しい状態にあるわけですね。
そうですね。いいサイクルで1年過ごせるんじゃないですかね。だから新しいことはどんどん若い人たちに任せて、俺はマイペースにやっていこうと。大変なことは大変なんですけど、楽しいから。やってて愉快だし。

–やってて愉快だっていうことが全てですね。
そうですね。お金じゃないなって。金はよそで借りれりゃいいやって(笑)。

–表情も含めて充実してる、楽しい、幸せって感じがします。
そうですかねぇ。そういう時期なんですかねぇ。幸いなことに体が丈夫なもんですから。あんまり大きな病気もしないし。酒飲めばうまいし。

–落語がメインにあり、その横に他の活動があると。
一応、そういうことになりますかね。落語が根底にあって、いろんなことやるっていう感じかな。

–落語というベースがあって、そこがあるからいろんなことができる、という順番。並列ではなく、ベースが一個あってそこにのっかってる、というイメージですね。
そう、それそれ。で、やりたいようにやってる。狙ったことが受け入れられると、こんな快感ないですからね。

–全てにおいてベースにあるのは快感ということなんじゃないかと。
そうかなぁ。快感ですかね。満足感かな。いや満足はしてないんだな。やはり快感ですかね。

–ステージにあがる、高座にあがるってことでしか得られない快感ってあるじゃないですか。全て人前に出てるっていうことで共通してる。そこで得られる快感は共通してるのかもしれません。
共通してますね。達成感でもない、やっぱり、快感かなぁ。達成してないんだもん。満足してないんだもん。ただ、単なる快感。自分が心地よいってだけで(笑)。

俺、落語のことはよくわからないんですよ。難しいこと言えないんですよね。ほんとに。わからないからやってる。

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–お弟子さんをお取りになりました。
そうなんです。去年10月くらいかな。入ってきたの。

–名前が「かな文」。文左衛門さんの前のお名前でですが。
紙に二つ名前書いてくしゃくしゃってして、好きな方取っていいよ、って。「なんて書いてある?かな文?じゃ、今日からそれ」って(笑)。

–あらら。お弟子さんが来て「かな文」をつけられたことに深い意味があるのかなと。
いや、ない、ないです。でも俺が「かな文」って名乗って前座やってる頃にねぇ、皆に「かな文ってよくつけたねぇ」って褒められたのよ。「よくつけたねぇ。文蔵さんさすがだねぇ」って。すぐ覚えてもらえるし。前座は覚えてもらうような名前の方が良いでしょ。ペットに名前つけるようなもんだから。それでいいのかなぁって。

–その師匠の名前を冠した会「文蔵コレクション」についてお伺いしますが、非常に面白いことやられてるなと思いながら拝見しています。
それまでらくごカフェでやっていた会は、誰かゲストで呼んで、ちょっと普通の落語会と違うような感じで遊びありの会をやってたんですけど、ちょっと飽きてきちゃって。でたまたま、うちの師匠の話になったときに、世話人が「文蔵師匠ってネタ数はどれくらいあったんですか?」って聞くから、「300くらいあったんじゃねぇの?」って言ったら、「え?それやってみませんかね」っていうことになって。うちの師匠は大ネタから短いのもいっぱい持ってたし、それに挑戦するのはどうかっていうことから一年前に始めたのがきっかけ。

–それは、基本的には昔にやってた噺ですか?
一度やっていたっていっても、二ツ目の頃とかでほぼ忘れてるんですよ。だからネタおろしに近い。誰から稽古してもらったかすら忘れちゃったみたいなね(一同爆笑)。そういうのを掘り起こしてもいいし、新たにやるっていうのもいいじゃないかなぁ。俺、「転失気」とか持ってないんですよ。「出来心」とかね、前座のうちに覚えるじゃないですか。「真田小僧」とか。

–なぜ、持ってなかったんでしょう。
別に・・・。興味がなかったのかな・・・(一同爆笑)。いやいや、興味はありますよ、あるんだけど、たまたまやらなかったんですよね。前座の頃は、俺、ネタは10もなかったなぁ。勉強会は二ツ目の頃にちょっとやってた時期がありましたね。隔月で。横目家とか萬窓とかと一緒に。そのときにやったのが、今、役に立ってますね。掘り起こすのにちょうどいい。でも、まるっきり忘れてましたけど(笑)。

–去年一年間やられたということは、新たに12席増えた換算ですか?
12席以上ですね。1回に2席やったり3席やったりするので。

–それはレパートリーとして残っている状態ですか。
ええ。「時そば」なんて10年以上やってなくって、こないだ久々にやってみたら面白くてね。頻繁にやってますよ。あと、「目薬」ね(笑)。それ以後、今や、すっかり目薬芸人になってる。うちの師匠も目薬芸人でしたらね(笑)。「時間延びてる?わかった」って目薬やっておしまい(笑)。

–「文蔵コレクション」を毎月やることで、ネタを強制的に覚えるという良いサイクルになってると思います。
ですかねぇ。それでいっぱいいっぱいですね。これ以上はできない(笑)。まあ、若い頃やってねぇから、そのツケが今きてる感じですね。

–ツケを気持ちよく払おうと。
そうですね。やっぱり、欲を言えばもうちょっと落語うまくなりたいですから。そのためにもやっていかなければいけない。でも、自分の会だと自分の客しかいないでしょ。不特定多数じゃないでしょ。そういうところで甘えている部分はあります。だからやはり寄席が基本です。

–文蔵コレクションで覚えたネタを寄席でかけて、ホールでもできるように身につけて、その過程のストレスをバンドで発散して、持ち出しになって(笑)。
ねぇ。なんでしょうね(笑)。俺には何も残らないんだろうな。財をなすなんてのはないでしょうね(笑)。死ぬとき裸一貫で死んでいくんだろうね。なんにも残ってねぇよって(笑)。

–それを笑顔で言われる様がなんとも素敵です(一同爆笑)。非常に自然体ですね。
ええ。あんまり形にとらわれない。ただ基本は、大事だから。そう叩き込まれたんで、師匠に。基本さえしっかりしてれば、あとは何やってもいいと前座の頃にとことん直されました。前座が終わったあとはもう師匠は何も言ってくれなかったんですよ。どっちかというと放任主義なんで、うちの師匠。あんまり師匠の家にも行かなかったし。もう行かないでいいやって。たまに行くと模様替えしてあるの、部屋が(笑)。そういうときくらい呼べよ、おめぇって。で、あまりにも行かないと、「なんだよ、たまには来いよ、顔見せろよ」とかって。愛人か、俺は(笑)。

–その師弟関係は面白いですね。たった一人のお弟子さんでした。
面白かったですね。「言葉を操る商売なんだから、言葉をちゃんとしなさい」って師匠にはずっと言われていました。本当に言葉を知らないから、ずいぶん直されましたね。あと、氷山の一角という話では、水面下にある部分も知らないといけないと教わりました。見せるのはこの一角だけでも、水面下のものは腹の中にいれておくものだと。これがなければ成り立たないんだと。その時は、「なんだそれ?」って思ってたけど、「なるほどな」とわかってきました。

–優しい師匠だったと聞いています。
面白い師匠でしたよ。基本的には、優しいです。あんまり怒鳴ることはしない。で、おかみさんと二人っきりでしょ。子どももいないしペットも飼ってないし。だから楽でしたよ。俺はだいたい料理番だったの。朝行くと千円札をはいって渡されて、スーパー行って買い物して、飯を作るんですよ。おかみさんは習い事してたから出かけちゃうし、師匠は寄席に行っちゃうしで、俺はその後ずっと寝てました(笑)。で、師匠が帰ってきて怒るんですよ。「お前そろそろ寄席行かなきゃいけねぇ」って(笑)。

–師匠に起こされるんですか。
そうそう。面白かったね(笑)。「寄席行くんじゃないの?」、「ああ、どうもどうも、いってきます」って(笑)。

–なんともすてきな関係ですね。
優しい師匠でしたから。恵まれましたね。「文蔵師匠だからもったんだよ。他だったら勤まらなかったよ」ってよく言われましたよ。もっともだなと思います。

–師匠との相性は重要ですよね。それで噺家人生が絶たれることもありますもんね。
憧れの落語家っているじゃないですか。小さん、志ん朝、談志、円楽とか。俺は柳朝師匠が好きだったんです。でも、そういう人たちのところに弟子入りしちゃダメだなって思ったんですよ。憧れで入っちゃだめ。俺はこの世界に就職するんだから、噺をちゃんと教わろうと。で、うちの師匠の噺を聞いたら、この人は基本がちゃんとしてると思った。面白いし。弟子もいないし。いいなって。そうしたら、案の定、狙いは狂っていませんでしたね。

–弟子がいないということは結構重要な要因ですね。
うん、兄弟子なんてうるさいだけだからね(笑)。弟子一人だったら無条件で可愛がってくれるかなとずる賢いことを考えていたら、その通りでした(笑)。実を言うと、俺の前に入門希望者が何人かいたらしいんですが、全部断っちゃったらしいんです。なんか親に反対されてるとかで。俺も最初は親に反対されましたけども、1年間で200万くらい貯めて、この金でやるからやらせてくれって母親を説得した。あの時が一番働いたかな。あの1年か、10ヶ月くらい。寝る間もないくらい働いた。

–それは落語に対する非常に熱き想いですね。
本当は中学を卒業した時に落語家になりたかったんですよ。柳朝師匠にあこがれて。でもあの時にならなくて良かった。本当に。結局、家を飛び出して、世間のいろんな水を飲んで、よその家の飯を食ったっていうのがすごくいい勉強になりましたよ。

–そういう人生勉強も噺家になる上で必要だったりします。
そうでしたね。遅いようですが、俺は24歳でこの世界入ったんで。でもよかったな、と思う。

–最近は大卒も多いですが、例えば花緑さんなど入門が早い人もいます。
そうそうそう、九ちゃんはそう。九は同期なんですよ。花緑、扇治、白鳥、おれ、萬窓の5人が同期。でも九ちゃんは前座を2年ぐらいやったら、バーンっていっちゃってね。

–先ほど名前が挙がった菊之丞さんは高卒で円菊師匠へ入門です。社会経験や荒波にもまれずにそのまま入ってしまうのは、それはそれできついだろうとも思います。
うん、まあ、人によってじゃないですかね。そういう人はそういう人で入門後にがんばって苦労するんだろうし。

–かと思ったら近年どんどん入門者の年齢が上がって落語協会は年齢制限がかかってしまいました。
らしいですね。いくつだっていいんだけどねぇ。

–見る側からもいろんな方がいてくれる方が嬉しかったりします。
そうでしょうね。えっと、たん丈だっけ?たん丈は俺と変わらねぇんだもん。歳が(笑)。たん丈とか、小里んさんとこの、麟太郎?麟太郎はね、俺が落語教室やってたときの生徒だったのよ。「噺家になりたい」って言うから「よした方がいい」って言ったら、ある日突然、「小里ん師匠の弟子になりました」って。びっくりして「お前、かみさんと子ども反対しただろ?」って聞いたら「あ、別れました」って。もういいよ、好きにしろって(笑)。最近あいつの噺を聞いてないけど如才ないやつだし、意外と苦労してきてるから、いい方向に行けばいいですけどねぇ。とにかく面白いんだよ、みんな。

–面白いですよね。ほんとに皆さん。それだけ落語に魅力があるんでしょうね。
俺、落語のことはよくわからないんですよ。難しいこと言えないんですよね。ほんとに。わからないからやってるんだもん。だからこうだっていうのがないんですよ。浮草稼業だし。それを探す作業でもあるじゃないですか。高座って。扇橋師匠がよく言ってましたよね。落語家っていうのは真っ暗な中で蛍光灯のスイッチを探しているようなもんだって。なかなか見つからなくて、探し当てて引っ張ると明るくなる、って言ってました。それがわかるようになってきたんです。

–今日すごくいろんなことが腑に落ちて、なるほどと思いました。
わかんないよ。明日になったら違うこと言ってるかもしれないし(笑)。

–それがいいんじゃないかな、と。
わかんないですよね。その時の気分で喋ってるんですからね。まあ、高座とおんなじなんですよ(笑)。

–その自由さが重要な気がするし、それが文左衛門師匠のような気がします。
あまり、自分を縛り付けちゃうのもね。だからといって手綱を誰も抑えてくれないと、困っちゃう。どこ行くかわからないから(笑)。たまにはキュッっと引っ張ってくれないと。師匠はそういう人だったんだけど、その人がいなくなっちゃったからね。その分自由にやらせてもらってるんだけど。あんまりこうねぇ、ふわふわっとしっぱなしもね、いい年こいて。

–今手綱を引っ張ってくれるような存在はいませんか?
いないですね。周りは結構心配してくれてたり、守ってくれてるんですけどね。でも何か面白いことだとか、愉快なことを思いつくとぽーんとすぐに行動に移すもんですから。だから、いつも皆がそれについて来てくれるっていう感じですね。ありがたいです。本当は下に落ちているものを上に上げるだけでも面倒な不精なんですよ。でも、もうブワーって走っちゃうんですね。暴走ですね(笑)。

–ですね。でも、すごく仲間に恵まれています。
そうですね。慕われてるわけじゃないんでしょうがね。後輩にも先輩にも恵まれてるし、知り合い、友達、恩人、知人にも恵まれてますね。でまた、気に入らないやつとはあまり付き合わないからね、同業者でも。

–そこは結構はっきりしてる
はっきりしてますね。だから、恵まれてますね。無理に過ごす必要がないんですよ、そういうやつらと。


6月28日(土)に原宿VACANTで開催されるビクター二八落語会への出演にあわせて、文左衛門師がビクターで発売したDVDより「らくだ」が期間限定公開中(6月27日まで)。
70分に渡る熱演をフルサイズでご堪能いただけます。
この機会に是非。


公演情報
06/28(土) 14:00
ビクター「二八落語会」
原宿VACANT, 東京都
全自由 2,800円 ※1ドリンク付 ぴあ イープラス Vacant:03-6459-2962

07/16(水) 19:00
第9回 三K辰文舎 落語&ライブ
文京シビックホール 小ホール (東京都), 東京都
柳家小せん / 入船亭扇辰 / 橘家文左衛門
全席指定 3000円 ぴあ イープラス サンケイリビング新聞社事業部:03-5216-9235

07/19(土) 14:00
文左衛門の月例「文蔵コレクション」
らくごカフェ(神保町古書センター5階), 東京都
予約2000円 当日2500円 らくごカフェ rakugocafe@hotmail.co.jp 03-6268-9818(平日12時~18時)

8/22(金)・8/23(土)なかの芸能小劇場にて、橘家文左衛門プロデュース公演が決定。
詳細は、追って公表。

8/22(金)「落語協会大喜利王選手権」
出演者:柳家喬太郎 / 橘家文左衛門 / 柳亭左龍 / 柳家小せん / 柳家喬之助 / 柳家喬之進/ 三遊亭粋歌 / ロケット団 / 他

8/23(土)
昼公演 「文左衛門・扇辰二人会」
出演者:橘家文左衛門 / 入船亭扇辰 / フォークシンガー小象(ゲスト)
二K辰文&小象ユニットによるライブもあり。

夜公演 「怪談噺の夏」
出演者:橘家文左衛門 / 入船亭扇辰 / 柳亭左龍 / 春風亭一之輔
ミニコントあり。内容未定。